高木ブー、戦争の記憶「空襲で自宅が燃え上がる光景は今でもよく思い出す」|連載 第75回
8月は高木ブーさんにとって、ウクレレを演奏する機会が増える忙しい月であると同時に、昔を思い出す月でもある。家族との幸せな暮らしは、戦争によって一変した。空襲で自宅が燃え上がる光景は、今でも脳裏から離れることはない。平和であることの大切さを感じながら、平和が続くことを願いながら、ブーさんは今日も歌い続ける。(聞き手・石原壮一郎)
見渡す限り火の海になった「城北大空襲」
毎年8月になると、テレビとかでは戦争に関係した番組をよくやってる。生まれ育った巣鴨の町や自宅が空襲で焼けたのは春なんだけど、やっぱり戦争を思い出すのは8月が多いかな。戦争が終わったのは、僕が中学1年生のとき。8月15日正午からラジオで流れた「玉音放送」は、おふくろの実家があった千葉の柏で聞いた。
暑い日だったな。ラジオの音よりセミの声のほうが大きかった。よく意味がわからなかったんだけど、まわりの大人たちが「日本が負けた」と言っているのを聞いて、「そうなのか。負けたのか」と思ったのを覚えている。日本が負けるなんて思ってなかったし考えちゃいけなかったから、悲しいとか悔しいとかより、頭が真っ白になる感じだった。
僕は1933(昭和8)年に東京の巣鴨で、6人きょうだいの末っ子として生まれた。住んでいたのは、親父が勤めていた会社の隣りにあった社宅。7軒並んでいて、敷地には大きな松の木と池があってね。親父もおふくろも、歳をとってからできた僕をとてもかわいがってくれた。休日には3人で隣町の大塚にチャンバラ映画を観に行って、その前には必ず食堂に寄る。いちばんの好物は親子丼だった。親父と縁日に行くのも大好きだったな。
家には当時はまだ珍しかったポータブルプレーヤーが置いてあった。それでジャズのレコードを聴いたときは「何だこれ!」とワクワクしたのを覚えてる。小学校の唱歌とはぜんぜん違って刺激的だった。今思えば、けっこうハイカラな家だったのかな。いちばん上の兄貴はタップダンス、2人の姉は日本舞踊や社交ダンスをやってたしね。
だけど、そんな穏やかで幸せな日々は、戦争が激しくなるまでの話。3人の兄貴は次々に出征していった。親父もおふくろも毎日、防火訓練とかで忙しい。集団疎開も始まったけど、僕は巣鴨で両親と暮らし続けた。そういう子どものことを当時は「残留組」って言ってたな。もともとは1学年で4~5クラスあったのに、6年生のときには1クラスだけだった。
東京にB29がしょっちゅう飛んでくるようになったのは、1944(昭和19)年の暮れ頃からかな。その前だったと思うけど、ウチの庭に防空壕を掘った。人が入れるような本格的なものじゃなかったけどね。家財道具とか食糧とか、大事なものをしまってた。
3月に下町で10万人の方が亡くなった「東京大空襲」があった頃から、状況はどんどん悪くなっていった。4月には、僕が住んでた豊島区を含む地域が「城北大空襲」で大きな被害を受けた。
その晩の空襲警報はすごかったな。大編隊のB29が大量の焼夷弾を降らして、たちまち見渡す限り火の海になった。おふくろは先に小石川植物園に逃げたけど、僕と親父はどうにか火を消そうとがんばった。でも、焼夷弾って油が詰まった筒の束がはじけてあちこちで燃え出すから、どんなに水をかけても消えないんだよね。
目の前で自分の家が燃えていくのを見るのは、何とも言えずみじめだった。「どうして」って呆然とした気持ちにもなった。あの光景は今でもよく思い出す。「もうダメだ。逃げよう」となって、飛んでくる火の粉を浴びないように布団を二つ折りにして、火の海の中を小石川植物園に走った。2キロちょっとの距離だけど、果てしなく遠く感じたな。
夜が明けてみると、家がビッシリ建ち並んでいたはずなのに、巣鴨まで全部焼け野原だった。家のほうに向かってトボトボと歩き始めたんだけど、途中には焼けたご遺体がたくさんあった。あの光景も、そしてにおいも忘れられない。とにかくつらかったね。
戦争が終わって、僕はウクレレに出合ってハワイアンに夢中になった。考えてみたらヘンな話だよね。自分をひどい目に遭わせた国の音楽を演奏して喜んでるんだから。でも、音楽を憎む気持ちが湧いてきたことはないし、米軍キャンプをまわってアメリカ兵の前でも演奏してたけど、彼らにもマイナスの感情は抱いたことはないんだよね。
人間がノンキにできているのかな。ただ、それだけアメリカの音楽や文化が魅力的だったし、音楽を憎むのは違うと思ってた。どこの国の音楽とか、どこの国の人とか関係なく、みんなで同じ音楽を楽しめるのが、平和ってことだと思う。「どこそこの国の音楽だから嫌いだ」なんて言ったら大切な平和を壊しちゃう気がするし、そもそも音楽に失礼だよね。
笑いも音楽も、平和じゃないと楽しめない。幸いなことに日本は平和が長く続いているけど、世界ではいろんな場所で戦争が起きている。今もどこかで、あの時の僕のような思いをしている子どもがいると考えると、すごく胸が痛い。僕はこれからも、音楽を通じて平和の大切さを伝えていけたらと思ってます。
ブーさんからのひと言
「戦争は、とてもつらい経験だった。世界では今も、戦争をしている国がある。僕はこれからも音楽を通じて、平和の大切さを伝えていきたいと思ってます」
高木ブー(たかぎ・ぶー)
1933年東京生まれ。中央大学経済学部卒。いくつかのバンドを経て、1964年にザ・ドリフターズに加入。超人気テレビ番組『8時だョ!全員集合』などで、国民的な人気者となる。1990年代後半以降はウクレレ奏者として活躍し、日本にウクレレブーム、ハワイアンブームをもたらした。CD『Hawaiian Christmas』『美女とYABOO!~ハワイアンサウンドによる昭和歌謡名曲集~』『Life is Boo-tiful ~高木ブーベストコレクション』など多数。著書に『第5の男 どこにでもいる僕』(朝日新聞社)など。YouTube「【Aloha】高木ブー家を覗いてみよう」(イザワオフィス公式チャンネル内)も大好評。6月に初めての画集『高木ブー画集 ドリフターズとともに』(ワニ・プラス)を上梓。毎月1回土曜日20時からニコニコ生放送で、ドリフの3人とももクロらが共演する「もリフのじかんチャンネル ~ももいろクローバーZ×ザ・ドリフターズ~」が放送中。8月16日に横浜の新都市ホールで「1933ウクレレオールスターズ ライブ」を開催(チケット発売中)。8月9日~25日に「そごう横浜店」8階で開催される「ハワイの風吹くウクレレ展『ウクレレの島』」(企画・プロデュース:関口和之)にも全面協力している。
取材・文/石原壮一郎(いしはら・そういちろう)
1963年三重県生まれ。コラムニスト。「大人養成講座」「大人力検定」など著書多数。最新刊「【超実用】好感度UPの言い方・伝え方」が好評発売中。この連載ではブーさんの言葉を通じて、高齢者が幸せに暮らすためのヒントを探求している。