考察『鎌倉殿の13人』後白河法皇を怪演した西田敏行は、大河ドラマで歴史上の人物をどう演じて来たか
参議院選挙投開票日にあたる7月10日は『鎌倉殿の13人』の放送休止。頼朝(大泉洋)亡きあとの新展開を待ちながら、ドラマ前半に強烈な印象を残した後白河法皇を演じた西田敏行に注目。1972年の『新・平家物語』から『鎌倉殿の13人』までのじつに14作の『大河ドラマ』に出演してきた偉大な俳優を中心に、歴史と大河ドラマを愛するライター、近藤正高さんが考察します。
『鎌倉殿の13人』の後白河法皇
『鎌倉殿の13人』で登場人物が死ぬ場合、たいていは非業の死、たとえそうでなくても、この世に未練を残して亡くなるのがほとんどだが、そのなかでほぼ唯一、安らかに息を引き取った人物がいる。西田敏行演じる後白河法皇だ。何しろいまわの際には「守り抜いたぞ」と連呼し、幼い後鳥羽天皇にも「守り抜かれよ」「楽しまれよ」と言い遺しての大往生であった(6月5日放送の第22回)。平清盛(松平健)や木曽義仲(青木崇高)、そして源頼朝(大泉洋)と、次々と台頭する実力者に対し、朝廷を守り抜いたとの自負がそう言わしめたのであろう。
西田敏行の大河ドラマ出演は、いまから50年前、1972年の『新・平家物語』で北条義時と横山相模介の2役を演じて以来、『鎌倉殿』までじつに14作を数える。そのなかで後白河法皇ばかりでなく、さまざまな人物の死を演じてきた。ここでは現在NHKオンデマンドなどの配信で観られる作品を対象に振り返ってみたい。
『おんな太閤記』の豊臣秀吉
まず最初は、橋田壽賀子の脚本で1981年に放送された『おんな太閤記』(現在、日曜早朝にNHKのBSプレミアムでアンコール放送中)である。豊臣秀吉が足軽から天下人へと昇りつめるまでを妻・ねね(佐久間良子)の視点から描いた同作で、西田は準主役の秀吉を演じた。
秀吉が亡くなるのは、最終回まで5回を残した第45回。死期を悟った秀吉にとって最大の気がかりは幼い嫡男・秀頼であった。そこで徳川家康(フランキー堺)や前田利家(滝田栄)ら有力大名を集めると、自分の死後は皆で秀頼を支えてくれるよう遺言する。西田にとっても本作のなかで一番記憶に残るシーンだという。自伝『役者人生、泣き笑い』(河出書房新社)によれば、じつはこの撮影に、彼は二日酔いの状態でのぞんだらしい。
原因はスケジュールの勘違いにあった。そのシーンのリハーサルを終えて、予定を書いたロール表を確認すると、本番の撮影は明後日とあった。本番では橋田脚本独特の長ゼリフをしゃべらなければならなかったが、それは撮影前日の明日までに覚えればいいと、その夜は飲んでしまう。翌日、二日酔いでべろべろになりながら改めてロール表を見ると、本番は今日だと知り、愕然とする。それからスタジオに入るまで必死になってセリフを覚え、何とか収録にのぞんだ。
しかし、これが結果的に幸いしたという。《なにしろ臨終の場で瀕死の状態です。見守る家族や家臣たちに、台詞を思い出し思い出し喋るので、息も絶え絶えな感じがよくでて、「とてもよかった」ということになったんです。まったく怪我の功名ですね》と西田は振り返っている(『役者人生、泣き笑い』)。
それからしばらくして秀吉は亡くなる。最期の場面について西田は事前に橋田壽賀子から「何かリクエストある?」と訊かれ、「じゃあ、映画のゴッドファーザーみたいに死なせてください」と要望していた。フランシス・コッポラ監督の映画『ゴッドファーザー』(1972年)では、マーロン・ブランド演じるマフィアのゴッドファーザーが庭で孫と遊んでいると突然倒れる。ああいう感じで死にたいと思ったのだ。
橋田は西田のリクエストにきちんと応えてくれた。そのシーンで秀吉は床を抜け出すと、庭で咲き乱れる菊の花を眺めていた。するとねねに声をかけられ、昔、野の花を摘んで彼女に贈ろうとしたところ手をはたかれて叱られたことを懐かしそうに話す。さらに足もとにミミズがいるのに気づくと、それを手に取って「愛おしいのう。生きとう生きとう。おかか、わしはもう、殺生はせぬわ」と、戦に明け暮れた人生を省みるのだった。
このあと、秀吉はミミズを逃がしたかと思うと、突然、その場に呆然と立ち尽くす。そしてねねの胸へ崩れ落ちるように倒れ込み、「おかか、あったかいのお」「おかか、今夜は雑炊にしてくりゃれ……頼んだぞ……ねね、ねね……」と口にしながら臨終を迎えたのである。享年62。演じた西田は34歳だった。菊の花だけでなくミミズを持ってきたところに橋田脚本の凄味を感じる。
『武田信玄』の山本勘助
前年放送の日本テレビ系の主演ドラマ『池中玄太80キロ』で三枚目のイメージがついていた西田だが、秀吉の好演によりその演技の幅広さを世間に周知させた。大河ドラマではこのあと、昭和を舞台にした『山河燃ゆ』(1984年)でアメリカ育ちの日系二世の青年を演じたのに続き、『武田信玄』(1988年)に出演する。甲斐の戦国大名・武田信玄(中井貴一)を主人公とする同作における彼の役どころは、武田二十四将の一人で、軍師・参謀として知られる山本勘助であった。
ちょうどこの年、人気シリーズとなる映画『釣りバカ日誌』の第1作が公開され、前後には『植村直己物語』や『敦煌』など海外ロケによる大作映画にもあいついで出演し、俳優として気力・体力ともに脂の乗り切っていた時期である。『武田信玄』の撮影に入ったのは奇しくも自身の40歳の誕生日(1987年11月4日)であった。
同作の最大の見せ場は、信玄が宿命のライバル・上杉謙信(柴田恭兵)とぶつかった川中島の戦いである。ドラマ中盤の第27回と第28回では「川中島血戦」と題し、両軍が互いの動きを裏の裏まで読みながら激戦を繰り広げる様子が描かれた。山本勘助はその緒戦で討ち死にする。
密偵を得意とする勘助は、このときも事前に地元の住民に聞き込みをして、川中島周辺ではある天候が続くと朝方、濃霧が発生するとの情報を得る。信玄はそれにもとづき作戦を立てた。開戦前夜、勘助は信玄の命を受け、平三(渡辺正行)と平五(松原一馬)という部下を連れて謙信の陣に接近する。そして上杉軍が動き出すのを確認すると、平五を信玄のもとへ伝令に走らせた。彼自身は平三とともに敵陣を突破し、その背後で待機する飯富(おぶ)虎昌率いる武田の別動隊と合流しようとするが、敵兵の攻撃を受け、重傷を負う。死を覚悟した勘助は、平三だけでも飯富の陣に向かわせると、一人で敵に立ち向かって討たれ、崖の下に転げ落ちて絶命する。最期に口にしたのは妻と息子の名前であった。
地を這うように任務を遂行する一方で、妻子を愛する一面を持つ勘助はどこまでも人間臭い。のちの大河『風林火山』(2007年)で主人公となった勘助を内野聖陽が異形の人物として演じたのは対照的である。内野勘助は最終回で壮絶な死を遂げるが、西田勘助と比べるのも面白い。
『翔ぶが如く』の西郷隆盛
『武田信玄』の翌々年、1990年の『翔ぶが如く』で西田は幕末・明治を舞台に西郷隆盛を演じ、大久保利通役の鹿賀丈史とともに大河初主演を果たす。彼の出身地である福島の郡山は、明治維新で官軍に対し最後まで抵抗を続けた会津藩に属するだけに、維新の最大の功労者である西郷の役をオファーされたときには悩んだらしい。これ以前、幕末の長州藩の群像を描いた大河『花神』(1977年)で山県狂介(のちの有朋)を演じた際には、山県が官軍の会津攻略時の参謀だっただけに、地元の友人たちから批判されていた。そのため、このときはあらかじめ地元の知り合いらに一応相談したところ、「長州でなければいい」と承諾を得たという。
維新後、新政府内で孤立した西郷は、薩摩に戻ると地元の不平士族に担ぎ上げられ、西南戦争を引き起こす。しかし、政府軍の圧倒的な兵力を前に、鹿児島市中の城山にまで追い詰められ、ついには自刃するにいたる。その様子は約60分に拡大された最終回(第2部・第19回)の前半で早々に描かれ、このあとの場面では、敵方に回ったかつての盟友・大久保をはじめ周囲の人々のあいだに漂う喪失感が強調された。そのなかにあって、西郷に付き従った長男・菊次郎(六浦誠)は片足を失いながらも生還し、家族と再会を喜ぶシーンが印象に残る。
後年、再び西郷を主人公とした鈴木亮平主演の大河『西郷どん』(2018年)では語りを西田が担当したが、途中から京都市長となった菊次郎の役で劇中にも登場するようになる。『西郷どん』は『翔ぶが如く』の続編でもリメイクでもなく、あくまで別の作品ではあるが、こうして出演者を介して作品どうしがリンクするのは、大河ドラマという歴史ある枠ならではだろう。西田自身は、大河に出演する意義について次のように語っている。
《ドラマとはいえ西郷隆盛を演ずることで、日本の歴史の転換点を、身をもって生きたという実感さえ覚えましたね。(中略)大河ドラマって、いつも人間について、人間の作り出す歴史について、肌で学べるんですね。/単発ドラマや映画とは違った、一年連続の大河ドラマならではの果実を、大河にでる度に手にしました。これだけの大役をこなすと、役者をやっていてよかったなアとつくづく思いますね》(『役者人生、泣き笑い』)
『葵 徳川三代』の徳川秀忠
『翔ぶが如く』のあと、『八代将軍吉宗』(1995年)で江戸幕府の八代将軍・徳川吉宗を演じたのに続き(同作には吉宗の臨終シーンもあるが、配信されていないので今回は紹介を見送った)、『葵 徳川三代』(2000年)では二代将軍・秀忠に扮した。秀忠は圧倒的なカリスマを持つ家康(津川雅彦)にずっとコンプレックスを抱いていた。妻の江(岩下志麻)からも尻を叩かれっぱなしで、頭が上がらない。息子の家光(尾上辰之助=現・松緑)との関係も、自分の後継者に家光ではなく弟の忠長を据えようとしたこともあり、ぎくしゃくしていた。そのなかで始終、右往左往する秀忠は、悲哀を漂わせながらも滑稽でもあり、コメディを得意とする西田のセンスとキャラクターがここぞとばかりに発揮された。
秀忠は死を前にして、没後に神として祀られた父・家康と自分は違うと、あくまで人間として死ぬことを望んだ。いよいよ死期を悟ると家光を呼び、最後はその手を固く握りながら、質素倹約に努めて諸大名の範となるようにと涙ながらに遺言し、「さらばじゃ」と別れを告げる。それは父子のわだかまりが解けた瞬間でもあった。
秀忠は満年齢でいえば52歳で亡くなった。当時の西田とちょうど同年齢である。私生活では前年に養父を亡くしており、出演中には《亡くなったことへの狼狽はあってもそれを上回る自立心がわき上がるものだな、と実感しました》と、自身と家康死後の秀忠を重ね合わせるような発言もしている(『NHK大河ドラマ・ストーリー 葵 徳川三代 後編』日本放送出版協会)。西田にとって秀忠は、これまで大河で演じたなかでも一番等身大に近い役であったのかもしれない。
日本のジャック・レモン
西田は前出の自伝で、演じる者を大きく二つに分けると、役に自分をすり寄せていくアクターと、役を演じることでどんどん自分が露呈されていくコメディアンとに分類できると書いている。彼自身はこのうち後者のタイプだという。そうなったのには、高校時代に観たハリウッドの喜劇映画『アパートの鍵貸します』(ビリー・ワイルダー監督、1960年)の主演俳優で、それ以来ずっと目標にしてきたジャック・レモンの影響も大きいようだ。
そんな西田をTBSドラマ『三男三女婿一匹』(1976~77年)で初めて知ってからというもの「日本のジャック・レモンだ」とずっと思っていたと話すのは、『鎌倉殿の13人』の脚本家・三谷幸喜である。三谷は《レモンも西田さんも喜劇のイメージが強いけど、決してコメディアンではありません。優れた俳優はコメディをやらせてもうまい、という真理をこの二人は見事に証明しています》と両者の共通性を指摘する(『キネマ旬報』2011年5月下旬号)。西田のほうも、映画『THE 有頂天ホテル』(2006年)を皮切りに三谷の作品に出演するたび、自分と同じくジャック・レモンやビリー・ワイルダーから影響を受けているとわかり、親近感を覚えたという。
三谷と西田がタッグを組むのは、大河ドラマでは『鎌倉殿』が初めてである。そこで西田の演じた後白河法皇は、どこか子供っぽく、策略家といえるかどうかもよくわからない。むしろ思いつきで策を弄するがゆえ、頼朝には手ごわい存在であったともいえる。とくに第19回(5月15日放送)では、源義経(菅田将暉)の処遇をめぐって後白河が頼朝を牽制すべく奇策に奇策を重ねるあまり、周囲の公家たちをも翻弄し、さながら“西田敏行劇場”ともいうべき様相を呈した。彼自身、楽しみながら演じていたことだろう。本作での出番は終わったが、いずれまた三谷と組んで、歴史上の人物を演じてほしいものである。
文/近藤正高 (こんどう・ まさたか)
ライター。1976年生まれ。ドラマを見ながら物語の背景などを深読みするのが大好き。著書に『タモリと戦後ニッポン』『ビートたけしと北野武』(いずれも講談社現代新書)などがある。