守りやすく攻めにくい 鎌倉幕府を守った「切通し」を歴史学者が案内|ちょっと怖い鎌倉トリビアも!
いま、NHK大河ドラマの舞台となっている「鎌倉」が再注目されている。鎌倉市には150以上の寺社があり、鎌倉時代には、三方を山に囲まれ、相模湾に面した地形ならではの防御がなされたといわれている。そのひとつに、細く通りづらい道が鎌倉幕府を守ったと言われる「切通し(きりどお)し」がある。代表的な7か所「鎌倉七口」を、歴史学者の本郷和人さんの解説付きでご紹介する。
狭く切り開いた道は「守りやすく、攻めにくい」
「鎌倉幕府は防御を最優先に考えたので、敵が入ってきやすい大きな道はわざと作りませんでした。その代わり山を削り、人が1~2人通れるくらいの狭い道、『切通し』を作りました。この道を通らなければ、鎌倉と外の土地は行き来することができませんでした」(本郷さん・「」内以下同)
大きな切通しの7か所を「鎌倉七口」と呼び、東西南北それぞれの土地への玄関口となっていた。
「道幅の狭い切通しは戦の際も封鎖しやすく、通過に手間取る敵に向かって上から矢を放つ戦法が有効だったといわれています」
天然の要害地と外の世界を結ぶ「鎌倉七口」切通し
【1】巨福呂坂(こぶくろざか)
鶴岡八幡宮から北鎌倉へ抜ける道。もともとはとても急な坂で不便だったため、通行しやすいよう北条泰時が切通しの造営を命じた。現在は大きな車道になっている。
【2】朝夷奈(あさいな)切通し
崖から落ちる滝を見ることのできる秘境スポット。鎌倉時代の豪傑、朝夷奈三郎義秀が一夜で切り開いたという伝説が残り、それにちなんで滝は三郎滝とも呼ばれている。
【3】名越(なごえ)切通し
「いわば鎌倉の東の出口。北条義時の息子の北条朝時の屋敷があった場所です」。鎌倉と三浦半島とを結ぶ要路のひとつで、周辺はやぐらや火葬場などがある葬送の地だった。
【4】極楽寺(ごくらくじ)切通し
「極楽寺切通しには、北条義時の息子である北条重時の屋敷があり、鎌倉の西の出口として機能していました」。現在は舗装されたが、両脇の崖は残っている。
【5】大仏坂(だいぶつざか)切通し
「関東大震災で一度崩れてしまったようですが、それでも当時の佇まいが一番残っている切通しです」。道の両側に絶壁のような高い崖が残り、苔むした岩が見られる山道。
【6】化粧坂(けわいざか)
険しい坂道は、当時の面影を残している。新田義貞が鎌倉を攻めた際に新田軍の主力が向けられたため、激戦地となった場所。現在では春は山桜、秋は紅葉の名所としても有名。
【7】亀ヶ谷坂(かめがやつさか)
北鎌倉から武蔵(現在の東京・埼玉など)に通じる道。現在は舗装路の急な坂。建長寺にいた亀がこの坂を上ったものの、頂上まで行けずに引き返した伝説からこの名がついた。
ちょっと怖い!? (裏)鎌倉トリビア
★鎌倉は一度“見捨てられた”都市
「鎌倉は、鎌倉時代~室町中後期までは活気がありましたが、流通や交通が不便なため、以降は明治時代まで発展しませんでした。中世に建てられた建造物の多くは壊されたため、ずっと都市であり続けた京都や奈良と違って、鎌倉には古い建物はほとんど残っていません」
★海辺から発掘される人骨は日本人の特徴を表す
「鎌倉時代、庶民の遺体は海の近くに葬られていました。現在も海岸から発掘される人骨は、中世日本人の骨格の研究に役立っています。身長が150cm台と小柄で、頭蓋骨が後ろに長く伸び、反っ歯だという特徴があるんですよ」
★切通しには遺体がゴロゴロ転がっていた!?
「切通しは街の中心部から離れた、いわば僻地でした。そのため庶民の遺体が置かれたり、処刑場があったといわれています。中世の日本では、遺体は魂の抜けた物質と考えられたので、現代のように遺体を大切に扱うことはありませんでした」
教えてくれた人
本郷和人さん/日本中世歴史学者
イラスト/別府麻衣 協力/逗子市
※女性セブン2022年3月3日号
https://josei7.com/
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