【連載エッセイ】介護という旅の途中に「第22回 母、卒寿を迎える」
写真家でハバーリストとしても活躍する飯田裕子さんによるフォトエッセイ。
認知症の症状がある母と、勝浦で同居するようになった飯田さんが母との近況を綴ります。
卒寿・90歳を迎えた母
二十四節気に倣い、春も間近。うぐいすの発声練習が盛んな昨今だ。黒潮が近くを流れる勝浦では、春は海辺からやってくる。太平洋を望む官軍塚ではひかん桜が早くも満開になり、母を連れて花見に行った。
父がだいぶ前に植えた椿の木も大きく茂り、花が咲き、やがてポトリと落ちた花を求め、夕闇に紛れてキョン(鹿の仲間)が降りてくる。キョンは花が大好物で、花壇に植えたストックも、楽しみに植えた苺の花も葉も、全て食べ尽くしてしまった。唯一パンジーだけは少し高い場所に吊るしたのでキョンの難を免れている。
雛祭りの翌日、3月4日は母の誕生日で、今年で90歳を迎えた。
「私は長生きの家系だから、困るね」と言いつつも、けっこう嬉しそうだ。心根が明るい人なのだと思う。
誕生日の朝、ピンポーンと玄関のベルが鳴り淡いピンク色の小さな薔薇やチューリップの花束が届いた。
「Keiko Baba , Happy birthday! お誕生日おめでとう」
それは、英国の孫たちとあちらのご家族からだった。
「忘れないでいてくれて、なんてありがたいことか」と、母の瞳に嬉し涙があふれた。
日本では90歳は卒寿という。九十の文字が卒に似ていることからそう言うらしいが、母は「人生卒業ってことだね…ははは!」と大笑いした。
「そうだよ。もう人生の修行は終わってあとは楽しむだけ!」と私。
ご近所のA子さんからも大輪の百合の花をあしらった花束が、広島に暮らす弟からも母が好きなお菓子のセットが届いた。
私はAIのアレクサにも誕生日ソングを歌ってもらうように指示し、直近のことをすぐに忘れてしまう母のために、この1週間は誕生日ウイークとし、アレクサに「恵子さん、90歳のお誕生日おめでとうございます。長生きしてくださいね」と毎日話しかけてもらうようリマインダーをセットした。
前に、ご両親を介護し見送った友人が言っていたことを思い出した。
「90歳を超えるとなんだか可愛くなっちゃってさ」
エゴが弱くなるのか、ある種の欲が薄れるのか、母もどこかピュアな妖精のようになってきたようにも思う。今までだったら、ふとした母の言葉にも私は度々イラッとすることもあったのだが、最近の母の表情を見ていると、もうそんなことはどうでもいいように思える。それよりも、正直もう多くはない時間、それを共有することの大切さや愛おしさを感じている。
ますます毛糸を編むことに夢中
ここ最近、母の口から「寂しい」と言う言葉を聞いたことがない。
「夜に一人でこの家で過ごすことにも慣れてきた」と、先日はA子さんにも話していたと言う。
それは、ヘルパーさんやA子さんが気にかけてくれているということや、私が接する態度に敏感に反応しているのだとも思う。寂しいと感じるよりも、毛糸に夢中で、ほぼ一日中編み物をしている。レースのコースターと同じく、円形に編んでいく。中心の色と外側の色、糸の色彩に心躍らせている。友人が送ってくれた毛糸はウール100%なので、アクリルタワシとしての実用品にするよりも、いっそ小さな円形を繋ぎ、大作にして母の個展を開けたら圧巻だろうと密かに考えている。
「この歳になると肩も凝らないね~」と言うので、触ってみたら、確かに全く凝っていない。好きなことをやっているので、肩こりの原因のストレスを感じていないのかもしれない。
「そうそう、90歳の記念ポートレイトを撮っておこうよ」
写真を生業としている自分がいつも忘れがちなのは、身近な家族にカメラを向けることだ。
さて、まずは母の髪を少し切って整えることにした。
「私の髪の毛は小さな頃からフワーっと踊り出して、まとまらないのよ~。おじいさん似なのよね」と髪のコンプレックスに関するお馴染みのフレーズが出た。しかし、もちろん若い時分は髪にもそれなりに気を使っていた。
母は私が記憶する限り、この30年自分で髪を切っている。美容院へは行かない主義であった。父は散髪に行っていたが、私も母のやることを見よう見まねで自分自身のヘアカットをすることもある。
しかし、最近の母は髪に櫛すらも通さず、ただザンバラ髪のお婆さんとなって一心不乱に編み物に集中している。たまに私の視界に入ると、ほぼ山姥状態の母にドキッとすることすらある。
「ママ、一日1回は髪をとかそうよ。オバケみたいだよ、まだ生きてるんだから、ね!」と櫛を渡しても「そうね」と言いつつ、ほぼ興味なし。しかし、いざ「撮影するよ!ちゃんとモデルさんになってね」と言うと、ノリが俄然よくなった。
「そうそう、アクセサリーもあるもの付けてみて。閉まっておくだけじゃ、宝の持ち腐れ!キョンとイノシシしか見てくれなくてもお洒落を楽しみましょう!」と母をコーディネート。
その気になってポーズをとる母。あれ?なんだかどこかで見たような
「昔、大屋政子って人いたわね~。おとうちゃーんって(笑い)」と母。90歳にして本領発揮の撮影大会であった。
ザトウ鯨の撮影のため沖縄へ
そんな母の安定した様子もあり、昨年1年のコロナ禍でペースの落ちた状態に甘んじてフットワークが重くなった自分もそのまま放置しておくわけにはいかない。
3月といえば、沖縄の慶良間諸島、座間味島にはザトウ鯨が出産と子育てにやってくる時期。かねてから取材撮影をしてみたいと思っていたところ、大学の後輩カメラマンが10年に亘り撮影を続けていて、ホエール・ウオッチング・ツアーを計画している話を思い出した。
「今年はコロナの非常事態で東京で勤めている知人友人らはことごとく旅を禁じられ、ツアーは実質中止。」一人で行くとの話。
しかし、ある意味、通常のホエール・ウオッチングの客がいない島では撮影に関しては余裕を持って挑めるチャンスでもある。きっと鯨も人間社会がしばしコロナ禍でフリーズしている間、伸び伸びとしているかもしれない。早速、旅取材を長年共にしてきた友人作家Yさんにも連絡を入れ、3名で取材の手はずを整えた。
そして、地球最大の哺乳類、鯨の母子をカメラに収めるべく沖縄へ。今回も感染対策を万全にし、密を避け、飛行機は行きも帰りも空港が混まない早朝便に設定した。久々の羽田空港のチエックインもカード1枚で機械で済ませ、荷物預けもオートマチックなAIが取り入れられていた。座席も密を避けた配置になっていて、この1年でコロナの影響からの変化を感じた。
那覇で自炊のための食料を調達し、高速船で座間味島へ。大きな病院もない離島にとっては、外部の人間を受け入れること自体が大きなリスクであろう。そんな島へお邪魔する身としては体調管理をしっかり整え、宿では自炊にしようということになった。
カメラ機材も水中での姿を収めるために、今回の撮影のためにアクションカメラも導入。自分が海に入るのではなく、長い竿の先に小さなカメラを装着し、鯨にストレスを与えないよう配慮した方法だ。
前日入りしていたJ氏とお世話になる宿と船のオーナーに話を聞くと、「今年の鯨は早く来て、早く帰っていく」と言う。生身の身体一つで大自然の中で生きている動物にとっては地球温暖化による環境の変化に合わせて生きていくしかない。
座間味の海では鯨たちは恋をして、妊娠し、そして遠く北のアリューシャン列島界隈の海で捕食し、1年後に再び座間味に戻り、出産、子育てをする。いわば鯨たちの故郷だ。母鯨はここで子供に生きる術を教え、再び子供とエスコートと呼ばれる雄の鯨(父ではない)を従えて、黒潮に乗ってアリューシャン列島への旅路につくという。
初日、何か所かある島の展望台からホエール・ウオッチング協会の人が目視で確認したという群れに船は向かった。いったい海の中では何が起こっているのか、船から鯨の呼吸であるブローを見つけた。5~6頭はいる。地球最大の哺乳類である鯨だが、やはり大海原は広い。曇天のやや荒れ気味の海に、鯨の息吹を確認するのは至難の業だ。
私は久々の海の上での撮影で、機材を準備し肉眼と、間近で耳にするブローの音に圧倒されながら撮影をした。波に弄ばれながらカメラの操作のためには冷静にならねばならない。こんな時体幹や足の筋肉が鈍っているのを感じ、日々のトレーニングの大切さを反省する。旅行作家のYさんもお父様を数年前に見送り、今はコロナ禍中でも工夫し稼働しているホテルはじめ、精力的に執筆活動をしている。旅の仕事を続けるには気力、体力ともにセルフマネジメントが必要だ。
「やっぱり二人で会うのは東京じゃなかったね」コロナ禍においてはなかなか東京に行きにくいのだが、かつて太平洋の辺境地を巡った仲間とはどうしてもやはり島で再会となった。
次の日は、天候が回復し、沖縄らしい青い空に青い海の中、船が出港。「こんな日は、母鯨さんがまったりと子供を従えて泳いでるかなあ」通い慣れたJ氏の瞳が彼らの姿を想像しほころんでいた。J氏にも4人のお子さんがいる。
そんなシーンに本当に出会うべく、船は進み、「ほら!いまだ、GO !」との船長の合図に、私もアクションカメラで水中を探った。鯨との邂逅を求め、4日間、朝の9時半から3時、4時まで、毎日違う出会いをしながら船上で過ごした。そこで鯨と出会えた感動は人生の宝物になるに違いない。
鯨も私たち人間も、この地球に生かされている小さな存在にすぎず、同じ仲間なのだ。私も母から生まれ、今がある。かつてはこの子鯨のように、母から沢山の生きる術を学んだ。そして今は母を介護する立場になった。しかし、介護もそれぞれが生きていてこそ。
鯨は老いるとどうなるのだろう?ふとそんな疑問が頭をかすめた。
野生の世界は甘くはない。数々の難関をくぐり抜け、幾度も出産した鯨であっても、老いや死を受け入れて、やがて海の環の中に帰すのだろう。きっと、人類として現代に至るまで、長い時代の人間も同じく、生命としての運命を受け入れてきた。もし自分に例えたらどうだろう?
老いや死ということを受け入れ、あるがまま生きている野生動物に対して、神々しさを感じた。
私も鯨も、沖縄から勝浦へーー
勝浦に戻ると、そこには同じ海があり、緑濃い山があった。
「なんだか遠くから帰ってきた気がしない。この間までいたところとあまり変わらないね」と母に話す。
写真やビデオに映っている鯨の親子を見せた。
「まあ、小さい子供だね、背中におんぶされて」と目を細める母。「この鯨たちも沖縄からの帰りに、きっと勝浦沖も通過しているね。」と私。
そう思ったらとても嬉しくなった。
(つづく)
写真・文/飯田裕子(いいだ・ゆうこ)
写真家・ハーバリスト。1960年東京生まれ、船橋育ち。現在は南房総を拠点に複数の地で暮らす。雑誌の取材などで、全国、世界各地を撮影して巡る。写真展「楽園創生」(京都ロンドクレアント)、「Bula Fiji」(フジフイルムフォトサロン)などを開催。近年は撮影と並行し、ハーバリストとしても活動中。Gardenstudio.jp(https://www.facebook.com/gardenstudiojp/?pnref=lhc)代表。