アドラー心理学の第一人者・岸見一郎氏、60歳を過ぎて初めて学んだ韓国語 多くの間違いをしたことで得た“気づき”と学びによる“喜び”
人生において自分自身を「特別な存在だ」と思うか、あるいは「思っていたより普通かもしれない」と思うか。「特別でなければならない」という考えを持っている人は、常に他者と比較している。歳を重ねてから何かを学ぶことですら、競争だと考えている面があるかもしれないが、学びの目的とは本来そうではない。アドラー心理学の第一人者で哲学者の岸見一郎氏が「特別になろうとしないが、同じでもない」生き方を探った新著『「普通」につけるくすり』(サンマーク出版)より一部抜粋、再構成してお届けする。
教えてくれた人
岸見一郎さん
1956年生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。奈良女子大学文学部非常勤講師などを歴任。専門のギリシア哲学研究と並行してアドラー心理学を研究。著書に、ベストセラー『嫌われる勇気』(古賀史健との共著、ダイヤモンド社)のほか、『アドラー心理学入門』(KKベストセラーズ)、『幸福の哲学』(講談社)、『つながらない覚悟』(PHP研究所)、『妬まずに生きる』(祥伝社)などがある。
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学ぶ側になることで教え方にも目が向くように
社会人になってから、さらには歳を重ねてからでも、新しいことを学ぶことの意義は大きいと私は考えています。仕事に直接役立つことだけでなく、すぐには役に立たないように見えることであっても、これまで一度も挑戦したことがないことに少し取り組んでみるだけで、日々の気分が変わることがあります。
私の場合、六十歳を過ぎてから韓国語を学び始めました。私は西洋哲学が専門だったので、若い頃は西欧の言語をたくさん学びましたが、アジアの言語に触れるのは韓国語が初めてでした。韓国人の先生について初歩文法を終えた後は、キム・ヨンスのエッセイを読みました。
当然のことながら、最初は間違えてばかりでした。予習に多くの時間をかけ、先生の前で韓国語を日本語に訳しましたが、他の言語ではしないような間違いをたくさんしました。
私は長年大学でギリシア語を教えていましたが、学ぶ側になると、私が教えていた学生の気持ちがよくわかりました。私は間違えても「ただあれやこれやの問題を間違えただけで、自分ができない学生だと思ってはいけない」と、学生に話したことを自分にも言い聞かせることになったのです。間違えても、ただ間違えただけで、できない、能力がないわけではないのだ、と。
最初は「間違えても当然」とまでは思えませんでしたが、やがて「初学者であれば間違うもので、能力の問題ではない」と思えるようになり、間違えてもそれほど気にならなくなりました。
知らないことを学ぶのは楽しいことですが、そのように感じられないとしたら、競争しているからです。私の場合は、個人授業だったので私の他に生徒はいませんでした。それでも架空の「私よりももっとできる生徒」のことを考えたりして、決して間違えない生徒と競争していたのです。
また、学ぶ側になると、すぐに理解できないのは自分の勉強が足りないからですが、教え方にも目が向くようになりました。とりわけ、複数の先生について学ぶと、教え方が上手な先生とそうでない先生の違いがよくわかります。
この気づきは、上司の立場で部下を指導するときにも役に立ちます。上司自らが学ぶ経験をすれば、部下が失敗したとき、部下の無能力や努力しないことのせいにしないで、自分の教え方にも改善すべき点があるのではないかと振り返るようになります。これにより、「どうしてこんなこともできないのか」と叱る代わりに、慎重に言葉を選んで適切に指導できるようになるのです。
学ぶときに感じる喜びは周囲にも伝わる
自分でもまた、新しいことを学ぶときに苦労した体験をいつの間にか忘れてしまっていたことに気づきます。こんなこともできないのかと言いたくなることがあっても、それはかつて自分自身が経験したことだと、新しいことに挑戦する体験を通じて思い出さなければなりません。
何を学ぶにしても努力は必要ですが、少しずつであっても新しい知識を身につける経験や学ぶときに感じる喜びは、周囲にも伝わります。もしも、学ぶことが苦痛でしかないとしたら、それは学び方や学びに対する先入観に問題があるからです。
知らないことを知ることに喜びを感じる──その経験が自分自身になければ、その楽しさを人に伝えることはできません。たとえ今は大変だと思っていても、諦めないで取り組み続ければ、予想よりも早く成果が表れることもあります。この自分の経験から、他の人に学びの喜びを伝えることができるのです。
上司と部下の関係に限らず、自発的に何かを学ぶとき、他の人と競争しないで、純粋に学びそのものを楽しむことが大切です。今は独学する人が増え、語学学習アプリなどでも、他の学習者と競争させる仕組みが多く見受けられますが、私はそうした競争に賛同できません。学びは競争ではなく、自分が成長するためのものだからです。