女優・小山明子さんが17年の介護を経て「やっぱりパパ(大島渚)がいちばん」と語る理由「君ならできると尊重してくれた」
女優の小山明子さんは、夫で映画監督の大島渚さん(享年80)を17年にわたって介護をした。自身も介護うつを経験するなど、大変な経験をしたという。「あのとき別れを選ばなかった」理由とは。世間では「バカヤロー」と激高する姿が知られていた大島監督だが、実は意外な一面があったという。
教えてくれた人
小山明子さん(88)/夫は大島渚さん(享年80)。1960年に映画監督の大島渚さんと結婚し、フリーの女優として活躍。大島さんが脳出血で倒れた後は介護の日々が始まった。
“バカヤローの大島”は家族をもてなす子煩悩だった
8月の暑い日に、「パパ、おビールどうしますか? 飲みますか?」と聞くと、彼は「当然!」と答えたんです。死にかけていた人が当然だなんて…と呆れながらも、同時に「ああ、この人は生きる意志があるんだ」とすごくうれしかった。
1996年に大島さんが脳出血で倒れてから、17年にわたって介護をしました。そのうち11年は自宅で見ていて、途中で自分自身もうつになって入退院を繰り返しました。何度も弱気になったし、大変な経験だったことは間違いありません。それでも別れを選ばなかったのは、世間ではあまり知られていない彼の人柄にあります。
彼は外の世界では“バカヤローの大島”として世間と闘っていたけれど、家にいるときに声を荒らげたり愚痴を言ったりすることは一切なく、鍋奉行をして家族をもてなす子煩悩な夫でした。すごく優しい人なんです。といってもベタベタと世話を焼くというよりも、もっと根本的なもの。
夫婦の間の「敬意と尊重」
例えば毎晩のようにうちに大島さんの友人が集って映画議論を交わしていた新婚時代。京都大学出身でインテリの大島さんは何でも知っていて弁が立ちましたが、洋裁学校を出ただけの私は話の輪に入れない。そのコンプレックスから「あなたはお嫁さんを間違えたんじゃないの」と思わず口走ると、彼は「あなたは撮影所という立派な大学を出たじゃないか。それでぼくは充分です」と言ってくれました。その言葉に救われて、引け目を感じることなく結婚生活を続けられました。
私が大島さんに監督として大きな敬意を持っていたように、大島さんもまた女優としての私を尊重してくれたこともうれしかった。
舞台があると必ず見に来て、「小山がお世話になります」と菓子折りを持って共演者の楽屋を回ってくれる。共演者やスタッフはみんな監督である大島さんの意見を聞きたがったけど、彼は舞台の演出家に対して失礼になるからと批判や論評を一切口にしなかった。それもすごくうれしかったですね。
服装も、普段はピンクやグリーンのスーツなど華やかな格好が大好きでしたが、私と一緒にパーティーに出るときは「あなたは女優だから派手な服装をしてください」と言いながら、自分は地味な装いに身を包んで進んで“引き立て役”になる。
大島さんが「きみならできる」認め続けてくれた
私が撮影や舞台で帰宅が夜遅くになるときは、大島さんはいつもウイスキーを飲みながら待っていて、1時間ほどおしゃべりしていたのも得がたい経験であり、それがきっかけで新しい仕事につながったこともありました。
あるとき、女性誌のセミナーの講演を依頼されましたが、話すのは苦手なので断ろうとしたんです。すると大島さんが「ぼくを相手に毎晩1時間話しているじゃないか。あんなふうに話せばいい。きみならできるよ」と言ってくれて、講演を引き受けることにしました。
同様に私が渋ったコラムの仕事も「きみは手紙を書くのが好きじゃないか。お手紙を書くつもりで相手のことを思って書けばできる」とすすめてくれました。
彼が後押ししてくれたおかげで、新しい仕事への道が開けて介護が続いて女優復帰が難しくなっても、経済的に大きく困窮することはありませんでした。講演はいまも続けています。
いまでも「この人でよかった、一緒にいられて幸せだった」と心から思っていますし、子供たちにも「やっぱりパパがいちばんよ」と言い続けています。
大島さんが「きみならできる」と認め続けてくれたことが、いまも私を生かしてくれているのです。
文/池田道大、土屋秀太郎 取材・文/戸田梨恵 取材/伏見友里、平田淳
※女性セブン2023年10月12・19日号
https://josei7.com/
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