兄がボケました~若年性認知症の家族との暮らし【第121回 壮大な妄想と現実と】
若年性認知症を患う兄と暮らすライターのツガエマナミコさんが、2人の日常を綴る人気エッセイ。症状が進んできた兄は排泄のトラブルを起こしてばかりで、妹のツガエさんは兄のお世話に翻弄される日々を過ごしています。そんな中、なんと先日新型コロナウイルスに感染してしまったのです。幸い兄への感染はなく、ツガエさんも回復しましたが、苦労と悩みはつきません…。
それでも「明るく、時にシュールに」、でも前向きに認知症を考えます。
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世界中の人が認知症になったとしたら…
うっかりどこかでコロナウイルスに感染して以来、嗅覚を奪われ、1か月以上が経ちました。今も全盛期の2~3割しか匂いが感じられないツガエでございます(個人の感想)。
アロマオイルの原液のような強い匂いは間近で嗅げばわかるようになりましたが、お出汁のような繊細な香りはどんなに意識を集中して大量に吸い込んでも無臭でございます。
全盛期は、街を歩けば鰻屋さんや焼き鳥屋さん、ペンシルバニアで幼稚園の先生をしていたという某おばさんのクッキーの甘い誘惑などに常に惑わされていたわたくしが、今はどこを歩いても冷蔵庫の脱臭剤…。そう、ノンスメルでございます。
いい匂いもしないのですが、嫌な匂いがないので匂いに関するストレスがありません。兄のお便様ほどではないにしろ、街にはいろいろな不快な匂いがありますからね。わたくしは、だんだんノンスメル状態が快適になってきており、全盛期の嗅覚が戻ってくることが怖いくらいです。
ですが、焦げ臭いとか、ガス臭いとか、ガソリン臭いといった危険を知らせる匂いや、食べ物の微妙な腐敗臭が分からないのは困りもの。それだけわかるようになったらいいのに、と思っております。
それはさておき、兄と暮らしていると認知症によって記憶が消されていることがよくわかります。学校で習ったことも、親から教えられたことも次々と消え、もう自分の名前も書けません。
それでもテレビを観て笑う事ができ、立って歩き、物を拾ったり、ドアを開けたり、静かに物を置いたり、階段を上ったり下ったり、管理人さんに挨拶したり、ほかにもいろいろな事が出来ます。
食べた物は消化でき、体温も保てています。なにより愛想がよく、優しさを失わないところは、わたくしよりも優れていると認めざるをえません。要らぬ優しさによって、かえってイラつくこともありますが、憎み切れない存在なのでございます。
最近思ったことを正直に申し上げると、「人は頭が良くなりすぎたのではないか」ということです。賢くなりすぎて、快適さや便利さへの追求が止められなくなって、地球のあるべき姿や生き物のあるべき摂理を捻じ曲げてしまっているように思えてなりません。世界中が兄クラスの認知症になったら、地球や自然が抱えているストレスが一気になくなるだろうな~と今日は妄想いたしました。平たくいえば、「人類滅亡が地球を救う」というかんじでしょうか。ハハハ。
妄想ができるのは、記憶をつなぎ合わせたり、関連する引き出しへすぐさま飛んでいけるからでございます。近頃、知的好奇心が旺盛なので引き出しが増えて妄想も壮大です。
でも、先日、記憶が思い出せなくて焦ったことがございます。
兄の認知症が進んできたので、持たせていたマンションの鍵を預かったのですが、その鍵をどこに置いたかわからなくなってしまったのです。「兄に持たせていたら失くしてしまう」と思って預かったのに、藪蛇と申しましょうか、これぞ本末転倒でございます。
「たぶんここ」というところになかったときの動揺は大きく、夜中にゴソゴソと部屋中を探し回りました。わりと単純なところに入れた気はするのに最終的にどこに置いたかがどうしても思い出せない。ほんの半月前の行動を覚えていないのは我ながらショックでした。
リビングやキッチンで置き場所を考えた記憶もあったので、そちらの引き出しも全部探しましたが見つかりません。そこそこ涼しい夜に、気付けばパジャマが汗だくになっておりました。結局、諦めてすこしウトウトした朝方に、「もしかして?」という場所がひらめきまして無事にみつかりましたが、己の記憶のなんと頼りないことか。妄想は壮大だけれど、現実はしょぼいものです。
自分の仕事や予定に加え、兄の分の予定や手続きがあるので、できの悪い頭はいつもパンパン。必然的にメモが多くなり、忘れないようにデスク周りに貼りつけていくものですから、ピラピラしすぎて優先順位を見失うというメモ地獄に陥っております。
文/ツガエマナミコ
職業ライター。女性58才。両親と独身の兄妹が、7年前にそれぞれの住処を処分して再集合。再び家族でマンション生活を始めたが父が死去、母の認知症が進み、兄妹で介護をしながら暮らしていたが、母も死去。そのころ、兄の若年性認知症がわかる(当時57才、現63才)。通院しながら仕事を続けてきた兄だったが、ついに退職し隠居暮らしを開始。病院への付き添いは筆者。
イラスト/なとみみわ