【連載エッセイ】介護という旅の途中に「第18回 母、ふたたび施設へ」
写真家でハーバリストとしても活躍する飯田裕子さんによるフォトエッセイ。
飯田さんは、両親の遠距離介護から始まり、いまは、父を見送り一人になった母の介護に向き合う日々…。同居か施設入居か、母を想えばゆえ、揺れ動く心を赤裸々に明かします。
* * *
新たな施設に入居した母
「あれ?何だっけ…?あれ?何だっけ?」
こんな言葉が最近、母の口から多く出るようになっている。
ふとした拍子に自分が今何をやっているのか、これから何をしようとしていたのかを忘れてしまい立ち止まっている…そんな様子だ――。
ついに母は、館山にある介護付有料老人ホームに入所した。
「ここの施設はあんたの家から遠いね」入所した館山の施設で母は、馴染みのない場所に来たみたいで、不安を感じているようだった。
「そんなことないよ、車で20分だし。私は頻繁に館山には買い物で来ているから」何度私がそう言っても、母の脳には刻まれないようだった。
「こんな事情の時ですから、一応ご家族の方の面会は特別な時以外は禁止です」と施設から言われているが、母が毎日手を動かして作品作りをしているレース編みの糸を補充する、という理由で私はなるべく施設に顔を出すようにした。たとえ直接会えなくても、母に私がきたことは伝わるはずだと。
施設と言っても、介護の世界ではカテゴリーがあり、以前入居していた岩井の施設は介護老人保健施設。
今回の施設は私立の介護付き有料老人ホームで、2階建てで全室個室、入所者は20名ほどだ。コロナ禍で多くの施設が新規入所を注意深く断っていた中、部屋が見つかったのは幸運だった。
母の部屋は西の角部屋で、街の住宅地と市民公園に面していた。人の暮らしの営みが近くにあり、母が長く暮らしていた船橋の住宅地にも似た面影もあり、安心できそうな環境だと私は思っていた。
しかし、「岩井の施設では海が眺められてよかったなあ」と母の顔つきは、いま一つの反応。それでも、持ち前の明るさを発揮し「窓の外に見つけた栗の木の秋の実りを楽しみにしよう」と話してくれた。
以前の施設では母の希望で大部屋に入っていたが、今回は個室のみ。ベッドは据え置きがあるが、他のものはすべて持ち込みという条件だった。テレビや机などの大物を運び込むのに、岩井の友人が軽トラック車を出し、力を貸してくれた。当面必要な衣服、布団、レースを編む糸、父や孫の写真などで6畳ほどの部屋を母らしく、寛げるよう整えた。
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住まいを転々とする母
長く暮らした船橋から、父の引退後勝浦へ。そして父亡き後、勝浦から岩井のわたしの部屋へ。その後岩井の施設へ入居、さらに岩井から館山の施設の部屋へ――。
『老木移すべからず』という格言を聞いたことがあるが、それに逆らった母の老後の転居。しかし、母は意外と順応力に長けていた。
「私は若い頃働いていたし、引っ越しも4回もしているから施設でも大丈夫なの。中にはお食事を沢山の人ととるのが恥ずかしいと言って俯いてる人もいるのよ」と、母も自分の順応性の高さを自負しているようだった。
母を再びプロの手に任せてホッとした私は、岩井にある自分の部屋を整えに帰宅した。が、気力の糸がたわんだように、新しい何かに向かってゆく気が今ひとつ湧かなかった。
その後、勝浦の家に久しぶりに向かった。父を見送り、そして愛犬もここでこの世を去った…。哀しい思い出を振り切るように、家の中の雑多な物を整理し、手放し、家の中をすっきりさせた。父の遺品や思い出の品もあったが、物があるということは手入れをし続けなくてはならないということ。今の私には、その体力も時間も、心の余裕すらない。以前から、父母、そして弟から「裕子が勝浦の家に暮らすの無理だね」とも言われていた。
勝浦の家を手放すことに決めたのだ。
何度も勝浦へ通い、時には人の力も借りながら、ゴミ焼却場に廃棄物を運び込み、昨年の台風に備えてガラス窓に貼った強固なテープをはがし、長らく締め切ったままの家に生えたカビを除去し掃除に汗を流した。掃除には庭に植えたハーブ、ローズマリーが一役買ってくれた。除菌や除臭、防黴効果があるので、アルコールに浸けたものをスプレーに入れて使う。
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まるでモデルルームのようになった家と、綺麗に刈り込まれた芝生の庭、そこに吹く風すらまるで新しい風のように感じられた。40年前に父がこの家を造った時はまだ所帯じみた匂いもなく、こんな風だったかもしれないと思い出したりした。
売却の契約を不動産屋と済ませ、ふと、叶うかどうかわからないけど、もしも母をもう一度ここに連れてきてあげられたら、とも思いついた。その相談をイギリスから一時帰国し広島に滞在している弟にしてみた。すると、弟も勝浦に来るという。コロナの心配を考え、電車を避けて車で遠路、やって来ることになった。
母、勝浦の家へ一時帰宅
母の施設では、外出も面会も基本禁じられていたが、「家とサヨナラをするための」という特別な理由で3泊の外出許可を得た。ただし、館山から勝浦までの間どこにも寄らない事。家以外の場所へは行かないという条件つきで。
数週間、外出できない施設で暮らした母は少し疲弊しているように見えたが、勝浦に到着し庭に出ると「ああ、やはり自然はいいね」と背筋を伸ばして空を見上げていた。
何より英国に暮らす弟との久々の再会を喜んでいるようだった。母親にとって息子は永遠の恋人なのかもしれない。さらに、普段離れた場所にいると、息子といえど多少遠慮がちにもなる。
「あの子には迷惑はかけたくないの」という母の言葉に「じゃあ、わたしには迷惑とか考えてないの?」と内心ムッとしつつ、少女のような表情に返す言葉もなかった。
3日が過ぎ母を再び施設へ送り届けた。
「もう十分にこの家を満喫した」と言う母。でも本心は家を手放す事をどう思っているのだろう?
母を見届けた後、わたしは久々の撮影で関越道を走り群馬県利根郡にある川場村へ向かった。
こうして、少しずつ、母と私の生活は落ち着つきを取り戻してきた…、と思ったが、なかなかそう単純な話ではなかった。母の様子に変化が起きてきたのだ。
(つづく)
写真・文/飯田裕子(いいだ・ゆうこ)
写真家・ハーバリスト。1960年東京生まれ、船橋育ち。現在は南房総を拠点に複数の地で暮らす。雑誌の取材などで、全国、世界各地を撮影して巡る。写真展「楽園創生」(京都ロンドクレアント)、「Bula Fiji」(フジフイルムフォトサロン)などを開催。近年は撮影と並行し、ハーバリストとしても活動中。Gardenstudio.jp(https://www.facebook.com/gardenstudiojp/?pnref=lhc)代表。