85才、一人暮らし。ああ、快適なり【第17回 無駄遣い】
雑誌社を経営するようになって、出版社としては珍しく、原宿に事務所を置いた。当時の原宿は、まだ恩田(おんでん)という地名だった。
表参道の裏道には、骨董屋と古着屋が軒を並べていた。その名残りは今もまだ少し残ってはいて、「骨董通り」という地名もある。
当時、異色なエッセイストとして若者から人気のあった植草甚一さんは『話の特集』のレギュラー執筆者だった。この人は「無駄遣い」の天才であった。
私は植草さんに誘われて、恩田の裏通りの骨董屋や古着屋をハシゴすることがしばしばあった。
植草さんは大金を持っているわけではなかった。店で掘り出し物や、興味のある品物を見つけると、とにかく値切る。店主とのやり取りが実にうまい。結局、僅かな現金で珍品を取得する。一見、今直ぐには役立ちそうにない物を、いろいろ買い集めて、嬉しそうに帰路に着くのだった。
それを自分で帽子にしたり、ベストに改造する。もちろん古着の類をものの見事に再生する。骨董類となると、手元にただ置いておくだけでなく、たちまち実用化するのだった。
もちろん私になど真似は出来ない。でも、お金の絶妙な使い方を教えてもらったのである。
コツのようなものがあって、もともと少しの現金しか持ち歩かない。切実感が大切なのだ。なけなしのお金を有効に「無駄遣い」する。植草さんに伝授された「無駄遣い」は、今日も日常の中に確実に生きている。
なるべく貯金しない。現ナマは少な目に持ち歩く。そして、のべつ「無駄遣い」をして、大いに楽しむ。これは古本屋通いにも役立った。
老いたら「耽ったらいい」と、前に書いた。自由な時間を作って、タンス貯金から少々の金をポケットに突っ込んで、古い街ををブラブラ歩く。必ず発見がある。下町や郊外の旧街道の宿場跡には、昔ながらの古物商があったり、ひっそりと地味な骨董屋が店を出していたりする。
必要に応じてする買い物なんて、こうした一見無駄な街歩きに較べれば、実に空しいと知るべきである。
小沢昭一さんは、コスプレ好きだったが、舞台衣装としてやがて使えると呟(つぶや)きながら、古着屋のハシゴをのべつやっていた。趣味と実益を兼ねていたとは言え、セーラー服や看護婦(ナース)の制服をどれくらい集めていたか知れない。
伊丹十三さんは、民族衣装の蒐集家でもあった。世界各国の正装を自分に合った寸法で誂(あつら)えて幾つも持っていた。
横浜中華街の裏路地にある仕立て屋で、私も一緒に伝統的な中国の旧貴族の服を作ったことがある。2回も仮縫いに通って出来上った。伊丹さんは良く似合ったが、鏡の中の私は滑稽そのものだった。
値段は伊丹さんの服の10分の1くらいだったが、見た目は全く変らない。伊丹さんのは絹の緞子(どんす)、私のは綿(めん)であった。生地で天と地ほども違う。伊丹さんはパーティーなどで実際に着用していたが、私の中国服はずっと箪笥の中だ。これぞ典型的な「無駄遣い」の失敗例である。
矢崎泰久(やざきやすひさ)
1933年、東京生まれ。フリージャーナリスト。新聞記者を経て『話の特集』を創刊。30年にわたり編集長を務める。テレビ、ラジオの世界でもプロデューサーとしても活躍。永六輔氏、中山千夏らと開講した「学校ごっこ」も話題に。現在も『週刊金曜日』などで雑誌に連載をもつ傍ら、「ジャーナリズムの歴史を考える」をテーマにした「泰久塾」を開き、若手編集者などに教えている。著書に『永六輔の伝言 僕が愛した「芸と反骨」 』『「話の特集」と仲間たち』『口きかん―わが心の菊池寛』『句々快々―「話の特集句会」交遊録』『人生は喜劇だ』『あの人がいた』など。
撮影:小山茜(こやまあかね)
写真家。国内外で幅広く活躍。海外では、『芸術創造賞』『造形芸術文化賞』(いずれもモナコ文化庁授与)など多数の賞を受賞。「常識にとらわれないやり方」をモットーに多岐にわたる撮影活動を行っている。