シニア特急~初老の歴史家、ウェールズを征く~<33>【連載 エッセイ】
長年、イギリス史を研究してきた、歴史家でエッセイストの桜井俊彰氏は、60代半ばにして、自身にとって「行かなければいけない場所」であったウェールズへの旅に出かけます。
桜井さんのウェールズ旅の軌跡を、歴史の解説とともに綴った、新しいカタチの「歴史エッセイ」で若いときには気づかない発見や感動を…。
シニア世代だからこそ得られる喜びと教養を堪能してください。
さあ、『シニア特急』の旅をご一緒しましょう!
【前回までのあらすじ】
ウェールズの大聖堂「セント・デイヴィッズ」にゆかりの深い『ジェラルド・オブ・ウェールズ』の本を日本人向けに出版した桜井氏は、「セント・デイヴィッズ」を訪れ、その著作を寄贈することを夢見ていた。
飛行機、列車、バスを乗り継ぎ、無事に目的地である大聖堂「セント・デイヴィッズ」のある街、セント・デイヴィッズに到着。
宿はB&Bの「Ty Helyg(ティー・へリグ)」。早速、訪れた神聖なる大聖堂の中へ入り、ついにジェラルド・オブ・ウェールズの石棺に出合う!また、思いがけず、テューダー朝の始祖である国王ヘンリー7世の父、エドモンド・テューダーの石棺にも巡り合う。
ジェラルドについて記した自著を大聖堂「セント・デイヴィッズ」へ献上したいという思いを果たすのだった。
翌日は、バスを乗り継ぎ、次の目的地、ペンブロークへ。
ペンブローク城の城内巡りを堪能し、絵本のような宿「Old Kings Arms Hotel」で一夜を過ごし、再び来た道を遡り、ペンブロークからカーディフへと向かう。ハーバーフォードウェストまではバス、その後電車でカーディフを目指すのだ。
* * *
IX だから、私は電車で眠らない、眠れない(4)
(2017/4/12 ペンブローク→ハーバーフォードウェスト→カーディフ)
●日本とメッセージをやりとり
私は電車に乗り込んだ。来た時と違い、今度はドア近くの荷物置き場のスペースは空いていた。スーツケースをそこに置くと、車両の中を15Fの席を探しながら進む。イギリスの鉄道では、予約席に席番を書いた細長いシールが貼ってあるのですぐわかる。
15Fに落ち着つき、しばらくの間ぼうっとしていると無性にビールが飲みたくなった。で、車内販売のカートを今か今かと待っていたら、最初に来たのは切符チェックの車掌だった。
若いのか、中年なのかよくわからないが、最近ではなかなかお目にかかれない肩まで伸びた長髪がかなり印象的である。来た時といい、なにかイギリスの鉄道、とくにウェールズ南部区間の車掌はだいぶ前のロックシンガーのようだなと、再び思った。
長髪車掌に続いてお待ちかねの車内販売のワゴンが、可愛いおネエさんに引かれてやってきた。
もちろん私はダブル・ドラゴンズのラガーとミックスナッツを買う。ついでに「Old Kings Arms Hotel」から持って来たトーストとバナナ、青りんごをテーブルの上に広げ昼食タイムとする。
私の斜め向かい窓際席でパソコンを叩いているビジネスマン風中年男性も、ブラウンパンのサンドイッチとガスウォーターでお昼にしている。いい風景だ。
私は、ビールのせいもあって眠くなってきた。でも周りを見るとやっぱり誰一人として寝ている者はいない。まったくイギリスは!いや、ウェールズは!と思うが、ここで不覚をとっていびきなんぞかこうものなら、日本人の沽券(こけん)にかかわる。ここでは国の代表なのだから、と踏ん張っていると娘からメッセンジャー(Facebookの通信ツール)でメッセージが来た。よし、ずっと家族とやりとりをしていれば眠気はどこかに行くな。いいタイミングだ。
―おとうさん、元気?おとうさんがおかあさんに送ったメッセージと写真、さっき見せてもらったよ。楽しそうだね。よかったね―
―うん。天気が最高でね。いい人たちと出会えたし、セント・デイヴィッズ大聖堂も、もうそこで死んで埋めてもらいたいほどよかった。アイルランドもいいけれど、ウェールズもいいよ。セント・デイヴィッズのちょっと先のフィッシュガードからはアイルランド行きのフェリーも出てるよ―
娘は今アイルランドにはまっている。私などとは比べものにならないほど英語が達者な娘は昨年、ビジネス英語をさらに磨くために会社の夏休みにダブリンの語学学校に一人で行って、友人をいっぱい作ってきた。今はそんな友人たちとのSNSのやり取りが楽しいという。やがて風呂からあがったカミさんもメッセンジャーに加わる。
―あのあと、ナナ(作者が飼っている犬)を散歩に連れて行ったんだけど、歩かないのよね。やっぱりおとうさんじゃないとだめね―
ふん、どんなもんだい。ナナ、えらいぞ。
―ねえ、この写真はバスの中?それとも電車の中?―
カミさんがさきほど送った写真を聞いてきた。
―今乗ってる電車だよ。この電車の終点はマンチェスターだ―
―わあ、マンチェスター、また行きたいわあ―
カミさんは懐かしそうだ。
●ただいま、カーディフ!
電車内のフリーWi-Fiの恩恵をいっぱい受け、私の眠気は吹っ飛び何とか日本人の矜持を失わずにすんだ。やれやれだ。
窓の外を見る。風景が変わってきた。都会に近づいているのがわかる。車内もちょっと慌ただしくなってきた。
車内アナウンスが入り、カーディフセントラルステーションに間もなく到着することを告げる。気の早い人々が荷物を持って席を立ち、後ろの乗降ドアの前に並び始め、車内まで列が続くようになった。たくさんの人が降りるのである。私も立ち上がり、列の後ろにつく。やがて電車は止まりドアが開く。一斉に乗客はドアからホームにと降り立つ。一昨日出発した同じ駅に戻ってきた。私は一介の旅行者で、ほんとうに短い旅だけれど、「ただいま」という感情が自然と沸いてきたのに気付いた。
スーツケースを転がしながらカーディフ中央駅を出る。夕方の4時。暑くも寒くもなくとても爽やかである。
「ジュリーズ・イン」を目指し歩き始める。初日に泊まった「マリオットホテル」はカーディフ中央駅の東側のすぐ近くにあり、見つけるのが簡単だった。今夜と明日の晩泊まる「ジュリーズ・イン」は中央駅からもっと北に進んだ、カーディフの繁華街のど真ん中にあるホテルだ。たぶん歩いて15分もあれば着くだろうとは思うが、地図で見る限り道が入り組んでごちゃごちゃしている。まあ、いざとなれば北にまっすぐカーディフ城まで歩いて行って、城に着いたらそこから真東に行けばホテルだと、大まかな方向を頭に叩き込み、しかし実際は北東に向かい最短距離を進んでいる。もちろん、右手に持ったスマホのグーグルマップのナビに導かれて、である。
ホテルに向かいながら、街並みを見ながら、思う。カーディフはお洒落で、若者が多い町だと。
もちろんどの国でも田舎は老人、都会は若者という図式が成り立つ。そうであっても、カーディフはさらにどこかカラフルで、若者が生き生きしているなという印象だ。これは私がセント・デイヴィッズやペンブロークといった比較的年齢層が高い人々に受ける郊外の町を先に回ったせいなのか。それとも私が若者に嫉妬する、すでにシニアの年齢だからことさら眩しく見えるのか。
単純に睡眠不足で観察力や批判力が鈍化して、みんな眩しく美しく見えているだけなのかはわからない。でも、ウェールズ初日に感じた、若いホームレスだらけのカーディフ中央駅近辺のどこかすさんだ印象は、今は私の中からとうに失せて、まるでまったく別の町に来たかのような新鮮なエネルギーを、この町の中央部を歩いている私はひしひしと感じている。いい都市だ。そう、思った。
●「ありがとう。でも、大丈夫」
迷うかなと思ったが実際には何も迷わず、グーグルマップのナビの力も大して借りず、目指したホテル、「ジュリーズ・イン」の前に到着した。
なかなかにクラシックでいかにもヨーロッパ的な大時代的な外観のホテルである。でも一見こういう風でも、いざ入れば中は超モダンという建物はヨーロッパには多い。昔からの伝統の街並みは残したい、でも設備まで古いままには絶対しない。ある意味、それがヨーロッパのダンディズムというか美学である。
どれ、と中に入る。やっぱり。中は現代風だ。でも超モダン、という感じではない。
しかし、すぐに驚いた。フロントデスクに大変な美女たちを揃えている。昔、ロバート・パーマーの曲で綺麗なモデルのおネエさんたちがバックバンドに扮している有名なPVがあったが、瞬間それを連想した。これはホント、超モダンだと思った。もちろん、気分が悪いはずはない。
フロントデスクの1人の美女に向かった私は、今日と明日、宿泊を予約した者だと名を告げ、彼女の向かいのゲスト席に座る。彼女はパソコンを叩き確認する。支払いを先に済ませてくださいということで、そうだった、ここはビジネスタイプのホテルだったと、予約時に確認したことを改めて思い出す。私はカードではなく現金で払うことにした。もうウェールズ滞在は実質明日1日のみ。使うお金は知れている。だから余分なポンドを全部使おうと。
現金を渡し、勘定を済ます。私は立ち上がり行こうとすると、彼女は荷物を部屋に運ばせましょうかと聞いてきた。そこで私は言った。
“Thank you, but I can manage it.”
ありがとう、でも大丈夫。何てカッコいい返事だろう。私はいつか使ってやろうと思っていたこのセリフを美女に言えた自分に限りなく舞い上がりつつ、しかし冷静さを装いつつエレベーターのボタンを押した。ほんと、バカである。
3階フロアでエレベーターを降り、カードキーを差し込み中に入る。電気をつける。そう、超モダンは部屋だった。モノトーンの配色の落ち着いたシンプルな空間。部屋自体は広くはない。この旅で泊まった宿では最小である。バスタブはなくシャワーのみ。しかし、すべてが揃っていて機能的で、ハイテックで気持ちがいい。ああ、今度の旅の宿はすべていい。つきは相変わらず継続中だ。
私はスーツケースを開け、シャワーを浴び、電車の中で結局食べなかった青りんごとバナナを一気に食べる。信じられないことだが、これでお腹がいっぱいになった。
9時を過ぎていた。ベッドにとりあえず横になる。あっという間に意識が遠くなり、眠りに堕ちた。
桜井俊彰(さくらいとしあき)
1952年生まれ。東京都出身。歴史家、エッセイスト。1975年、國學院大學文学部史学科卒業。広告会社でコピーライターとして雑誌、新聞、CM等の広告制作に長く携わり、その後フリーとして独立。不惑を間近に、英国史の勉学を深めたいという気持ちを抑えがたく、猛烈に英語の勉強を開始。家族を連れて、長州の伊藤博文や井上馨、また夏目漱石らが留学した日本の近代と所縁の深い英国ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の史学科大学院中世学専攻修士課程(M.A.in Medieval Studies)に入学。1997年、同課程を修了。新著は『物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説 』(集英社新書)。他の主なる著書に『消えたイングランド王国 』『イングランド王国と闘った男―ジェラルド・オブ・ウェールズの時代 』『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 』『英語は40歳を過ぎてから―インターネット時代対応』『僕のロンドン―家族みんなで英国留学 奮闘篇』などがある。著者のプロフィール写真の撮影は、著者夫人で料理研究家の桜井昌代さん。