荒木由美子 義母の20年介護【2】~由美ちゃん、ありがとう~
アイドルの絶頂期で13歳年上の歌手・タレントの湯原昌幸さんと結婚、潔く芸能界を引退した荒木由美子さん。しかし、結婚2週間後に義母が入院、その後、病状は認知症へと進行し、およそ20年にわたり、荒木さんは、介護と子育ての日々を送ることになる。
荒木由美子さんに、自身の介護経験を振り返り、語っていただいた。
* * *
どこかおかしい…主治医の診察結果は「認知症」
始まりは、猛烈な不機嫌だった。
「おばあちゃん、お茶飲む?」と聞くと「お茶なんか、いらない!」と怒る。用事を済ませて慌てて帰宅をすると「ブラブラどこに行っているの!」となじる。
それまでは、由美子さんの食事でなければイヤだと言っていたはずなのに、食事を作っても食べずに、義母は自分で惣菜を買ってくるようになった。
「そのときは認知症が始まっていると気づかずに、どうしてだろう、私の何が気に入らないんだろう、とただただ悲しい気持ちでした。夫に言ってその想いを軽くすれば良かったのかもしれないけれど、それはできない。夫にとっては大事な母親ですから、悪口は聞きたくないに違いないと思いました」
夫である湯原さんは、その様子に心を痛め、ときに義母を叱りつけることもあった。しかし、そのたびに荒木さんは「私はいいから、喧嘩はしないで」といさめたと言う。最初は、嫁と姑とのよくあるいさかいにも見えた二人の関係の中で、荒木さんは「お母さん、どこかおかしい。まさか……」と何度か予感した。
「そのうちにお金がない、とか、モノが無くなったというようになって。明らかにおかしいと思い始めたときに主治医から、認知症の始まりかもしれないと告知されたんです」
当時は「認知症」という言葉もなかった時代。「ボケ」という言葉を使うのははばかられた。
――そして、検査の結果、義母は認知症と診断される。
認知症の診断と前後して、義母は、お金使いが荒くなり、男性に対する態度も変わった。
宅配便の人を見て「若い男を連れ込んでいる」
「『先生が私に手を出した』とか『先生と看護師さんがイチャイチャしている』などと言い出して病院に行くのを嫌がったり、宅配便屋さんや郵便局の人が来ただけで『由美ちゃんのところに男が来ている』と言い出したり、息子を見て〝若い男が家にあがっている〟とまで言い出す始末で、本当に困ってしまいました」
主治医は「認知症の症状が進むと、多くの人に現れる症状です」と説明した。
そんな義母の様子に幼稚園に通う幼い息子も「おばあちゃんがおかしい」とおびえるようになった。
荒木さんは「おばあちゃんはね、病気なのよ」と説明するが、当然のことながら理解はできない。息子は次第に「おばあちゃんと一緒に食事をしたくない」と言い出すようになる。
「幼い子供がそう思うのも仕方がないなあと思って、息子の食事は2階の子供部屋に持って行くようになりました。すると義母が『由美ちゃんは若い男を2階に連れ込んで、食事までさせている』と言い出すんです。その言葉はショックでしたね。認知症の症状だから仕方がない、と割り切れない。分かっていてもつらい。そんなことがいくつもありました」
徘徊、妄想――でも、私は大丈夫と思えた
ある男性芸能人の不倫のニュースを、夫のニュースと信じ込んで「由美ちゃん、怒ってる?でもね、魔がさしただけ。男の人にはよくあることだから、昌幸を責めちゃダメよ」と言われたこともあった。
荒木さんがしている指輪を見て「由美ちゃんが私の指輪を取った」と言い出し、自分の部屋へ持って行ってしまうこともあった。家の中を徘徊して窓やドアの鍵をすべて壊してしまったことも、眠れずに一人でソファーに座っていたり、眠っている荒木さんの顔を覗き込んだりする夜もあった。
「息子が小学4~5年生になったころだったと思います。義母はいつでも私を探すようになって、私が見えないと心配するので、できるだけ手をつないでいるようにしました。手を擦って、『大丈夫よ、私はここにいるよ』と声をかける。大変でした。でも、お年寄りの手って独特の柔らかさとぬくもりがあるんです。シワシワなんだけれど、フワフワしている。顔を見ないで手だけを触ると、憎しみが消えるんです。あぁ、もうイヤ!と思うときも、あの手のぬくもりを感じると、『まだ私は大丈夫』と思う。不思議ですよね、人のぬくもりって」
思い出すように言った。
このままでは、みんなダメになる!在宅介護から施設介護へ
そんな自宅での介護がおよそ7年間続いた。
「義母を施設へ」という選択肢は荒木さんにはなく、とにかく自宅で介護をしようと奮闘した。しかし、その想いは自身の体の不調で途切れる。
「最初はゴソッと髪の毛が抜けました。そして胃痙攣、手の震え、泣くつもりはないのに涙が溢れてくる……。自律神経失調症です。体は正直ですよね。私はもちろん、フォローをしようと考える夫も、様子を見守る息子も疲れ果てて、家からは笑いが消えました。
張りつめた空気の中で、それを打ち破るように夫が義母の首に手をかけたとき、必死にそれを止めながら、『このままじゃ、みんながダメになる』と、心からそう思ったんです」
冷静になった夫の湯原さんは「これ以上は家族で介護をするのは難しい。設備の整った専門病院か福祉施設で母を看てもらおう」と言った。
「いまでは心から、『家族だけではなく、人の手を借りていいんだよ』と他の人にアドバイスができますが、当時はやっぱり無念でした。勝ち負けじゃないけれど、(介護に)負けたとも感じて、自分を責める気持ちもありました。何より、あの頃はまだ認知症に対応する施設が少なく、義母のことが心配だったんです」
しかし、そうした不安は杞憂に終わる。
最初に紹介された施設は、鉄格子がはめられた精神科の病院で、荒木さんはショックを受けた。
泣きながら義母の手を引き、「こんなところに(義母を)預けるなんてできない」と思った。が、次に紹介された施設は設備も整い、スタッフも専門家揃い。安心して任せられる環境だった。続いて紹介された施設も、同様だったので、この2カ所の施設に3カ月交代で入院する手続きをした。
「2施設とも家庭的で先生も看護師さんも親身になってお世話をしてくださる環境だったので、安心してお任せできました。手続き上、長期間入院はできないとはいえ、3カ月ごとの転院に義母は混乱して『私をどこに追いやるの!』『由美ちゃんの意地悪!』と言ったりもしましたが、病院のスタッフの皆さんが上手になだめてくださって……。母もだんだんと落ち着いて入院生活を送れるようになり、本当に感謝しています」
施設介護になってからも、荒木さんはほぼ毎日病院に通い、義母の世話を続けた。入院生活が3年たったとき、2カ所の老人保健施設で3カ月ずつ、という手続きが取られ、義母は落ち着いた環境で過ごすことができるようになった。
由美ちゃん、ありがとう
「義母の状態も安定していましたが、一層、私に甘えるように。好物のおいなりさんを持って面会に行くと『由美ちゃん、だ~い好き!』と喜んでくれたり、施設にいるほかの方を褒めるとやきもちを焼いたり、外出のときに私と同じ色の口紅をつけて、真っ白な髪の毛に紫色のカラーメッシュを入れてあげると大喜びしたり。おおむね穏やかな日々でした」
入院生活は8年続いた。糖尿病や高血圧は入院生活でコントロールされていたが、2002年の年末、微熱が続いた義母は急性白血病の疑いがあると診断される。
「年が明けてすぐに病状が悪化したとの連絡が入ったんです。慌てて家族で病院に駆けつけると、病気とは思えないほど顔色が良く元気でした」
家族揃って「あけましておめでとう」と言いあい、認知症の症状もまったく感じさせない元旦だった。続く三が日の間の義母は、ボケることは一切なく、話し、笑い、また話す。荒木さんは、こんなに穏やかに家族の時間を過ごせたのは、どれくらいぶりだろうと思った。
一転、4日の朝はそれまでがうそのように、衰弱して、意識が遠のいては戻ってくる時間が続いた。
「私も夫も涙が止まりませんでした。義母が私の手を握って『由美ちゃん、ありがとね』と何度も何度も繰り返して、優しく私の頬を撫でてくれました」
その日、義母はいつものように「バイバイ」と手を振り、しかし、その様子は弱弱しく、まるで「もういいよ。十分に看てもらったから、あとは好きなことをやりなさい」と言っているようにも感じたと言う。
それから3日後。2002年1月9日、義母は静かに永眠した。
荒木さんの20年にわたる介護の幕が下りた日でもある。
次回は1月9日公開予定。
→荒木由美子 義母の20年介護【1】~結婚と同時に介護人生が始まって~を読む
荒木由美子
佐賀県神埼市生まれ。第1回ホリプロ・タレントスカウトキャラバン」にてデビュー後、シングルレコードを10枚リリース、多数のレギュラー番組を持ち、アイドルとして歌謡以外にも司会やドラマなどで活躍。1983年に、歌手の湯原昌幸と結婚を機に芸能活動を引退。同居の義母を20年にわたり介護する。義母を看取った翌年2004年に芸能界復帰。義母の壮絶な介護体験を記した書籍『覚悟の介護』がビッグヒットとなる。
2017年12月に37年ぶりの新曲となる『私はブランコ』をシングルリリース。NHK『みんなのうた』で、12月1月の曲として放送。また。同CDに収録の『ありがとうはエンドレス』は、介護をやり遂げた荒木さんの人生が重なると話題を呼んでいる。
撮影/津野貴生 取材・文/池野佐知子