《200年以上続く老舗を支える誇り》「野田岩」五代目・金本兼次郎さん(98歳)、うなぎ職人として今も現役 父に継承を告げられた日「いい仕事をただひたすらに丁寧に続けていく。それが今に繋がっている」
江戸時代から200年以上続くうなぎの名店「野田岩 麻布飯倉本店」。その五代目として長きにわたり、のれんを守り続けているのが金本兼次郎さん(98歳)だ。戦中戦後の激動の時代を生き抜き、四代目の父の背中を見て育った金本さんは、老舗の味と伝統を次世代へとつないできた。生涯現役を貫く金本さんに、これまでの半生と仕事への向き合い方を聞いた。【全3回の第1回】
坂の下は下町、上は山の手。出前専門だった戦前の麻布飯倉界隈
――金本さんは第二次世界大戦の開戦より10年以上も前、1928年のお生まれです。その頃、お店のある飯倉界隈はどのような雰囲気でしたか?
金本さん:私が生まれて物心ついた頃の飯倉は、とても落ち着いたいい町でしたよ。静かだけれど、どこか下町の風情も残っているような場所でね。坂の途中から下、いわゆる飯倉の3丁目や4丁目までは下町風の雰囲気が漂っていて、そこから上の高台に行くと山の手になるんです。
昔の「野田岩」は、今のように店にお客さんを迎えて召し上がっていただくような形ではなくて、出前が専門でした。当時の出前は、うなぎが冷めないように急いで運ぶのも職人の腕の見せ所。親父はそれはもう遠くまで出前に足を運んでいましたよ。ここから浅草橋の近くの柳橋までうなぎを運んだこともあってね。遠くまで出前に行けば行くほど、それを誇りに思って自慢していたのをよく覚えています。
――当時の四代目であるお父様の働く姿は、どのように映っていましたか?
金本さん:私の親父は生粋の江戸っ子でした。気性が荒くて、あっという間に手が出る。町内の人たちとも、気に入らないことがあるとすぐにけんかになってしまうくらいでね。近所の人も親父には直接言えないから、私を通して話をすることがよくありました。だけども、とにかく商売には熱心で、うなぎを焼かせたら天下一品。そんな親父の背中を見て育ちました。
気性の荒い父の「見て覚えろ」を補ってくれた、おじさんの存在
――職人としての修業で、一番厳しかったことは何ですか?
金本さん:修業はずっと厳しかったですよ。私が少しのんびりした性格だったのに対して、親父は気が短かったですからね。子供のころから父に連れられて仕入れに出向き、うなぎの目利きや交渉術などを学びました。
当時はバイクなんてありませんから、仕入れは全部自転車です。荒川の橋を渡って、東京湾の問屋まで自転車で走るんです。東京から荒川の先まで、ペダルをこぐ足にも力が入り、体力も精神力も鍛えられましたね。親父の背中を追いかけて、必死に食らいついていった日々でした。
――お父様からうなぎを扱う技術をどのように学ばれたのでしょうか。
金本さん:親父は「こうしろ、ああしろ」と手取り足取り教えるような人ではありませんでした。だから、技術は見て覚えるしかなかったんです。親父は串打ちが本当に上手でしたし、タレをつけてうなぎを焼く技術に関しては、誰にも敵わないほどでした。親父の仕事を見ながら「こうやってるのか」と頭に叩き込んでいきました。
ひとつありがたかったのは、「よっちゃん」と呼んでいたおじさんの存在です。親父とは正反対で、とても穏やかで綺麗な仕事をする人でした。親父を見ているだけでは分からない部分を、おじさんが裏へ回って「あれはこういう理由でいい仕事なんだ。しっかり覚えろよ」と、理論的に分かりやすく教えてくれたんです。
戦後に進駐軍で働いたりして世の中のことをよく知っている人で、このおじさんが私をしっかりと育ててくれたと言っても過言ではありません。親父が背中を見せながら、おじさんが言葉で補足してくれる。この両輪があったからこそ、私は「野田岩」の味をしっかりと受け継ぎ、仕事を深く理解することができたのだと思います。
焼け野原からの再建。そして「明日から野田岩をやれ」と言われた日
――この辺りは、戦争で壊滅的な被害を受けたそうですね。
金本さん:私が10代の終わり頃は、毎日が空襲の連続でした。(店から見える現在の)東京タワーの方向からB29が飛んできて、下町の方へ向かって焼夷弾を落としていく。窓から空襲の様子を見ていることもありました。また、防空壕に逃げ込むときには、必ずタレを持ち込んでいました。
「野田岩」の店も焼けてしまってね。終戦後、親父と私はバラック小屋を建てて、すぐに店を再開しました。しかし、日々の食事にも困る生活の中で、うなぎを食べる人は稀でした。経営は極めて厳しく、父は蒲焼を携えて、お得意様を訪ねて売り歩きました。
――五代目を継ぐと決められたのは、いつ頃だったのでしょうか。
金本さん:8人きょうだいの長男として生まれたときから、自然と決まっていました。ただ、明確に代替わりをしたのは、30歳ごろのある夜のことです。親父が「一緒に飲みに行こう」と誘ってきてね、近所で2人で飲んでいたんです。親父がご機嫌になってきたなと思ったら、突然「おい、お前明日から野田岩やれ」って言ったんです。
私は「いいよ、俺やるから」と二つ返事で答えました。緊張とかそういうのはなかったですね。13歳からずっと店に張り付いて仕事をしていましたし、おじさんたちにしっかりと仕事も教わっていましたから。それに、外へ出て色々な勉強をしていたので、親父とは少し違った商売の考え方も自分なりに持っていました。
何より、親父がくたびれてきているのが分かっていたんです。親父の方から「バトンタッチする」なんて態度を見せたことは一度もありませんでしたが、タイミングを計っていたんでしょうね。だから「明日からやれ」と言われた時も、まったく抵抗はありませんでした。
――五代目になった日から、仕事の内容は変わりましたか?
金本さん:何も変わりません。それまでに親父の仕事は体で覚えていましたから。私が親父に代わって先頭に立つようになっただけで、そのまま地続きでやってきた感覚です。江戸時代から続く看板を背負うことにはなりましたが、特別な意気込みというよりも、自分が見てきた「いい仕事」をただひたすらに、丁寧に続けていく。それが今に繋がっているんだと思います。
◆野田岩五代目・金本兼次郎
かねもと・かねじろう/1928年1月1日、東京生まれ。寛政年間創業のうなぎ屋「野田岩」四代目の長男として生を受け、13歳で修業に入り、1957年に五代目就任。2007年、厚生労働省より「卓越した技能者の表彰(現代の名工)」に選出。「ミシュランガイド東京2026」にてメンターシェフアワードを受賞。98歳を迎える現在も焼き場に立ち、生涯現役を貫く。
撮影/小山志麻 取材・文/小山内麗香
