末期がんの母、東京行き大作戦「77年来の親友に会いたい」|「147日目に死んだ母――がん告知から自宅で看取るまでの幸せな日々」Vol.5
コラムニストの石原壮一郎さんが綴る母の介護と看取りの物語。大腸がんステージ4と診断を受けた母・昭子さん(享年83)に「悔いのない時間を過ごしてほしい」と石原さん夫妻、石原さんの弟夫妻が連携しながら、最期のときまで見守った記録だ。昭子さんの姿、そして、家族の思いを通して、人生の仕舞い方や周りの寄り添い方を一緒に考えたい。
執筆/石原壮一郎
1963(昭和38)年三重県生まれ。コラムニスト。1993年『大人養成講座』(扶桑社)がデビュー作にしてベストセラーに。以来、「大人」をキーワードに理想のコミュニケーションのあり方を追求し続けている。『大人力検定』(文藝春秋)、『父親力検定』(岩崎書店)、『夫婦力検定』(実業之日本社)、『失礼な一言』(新潮新書)、『昭和人間のトリセツ』(日経プレミアシリーズ)、『大人のための“名言ケア”』(創元社)など著書は100冊以上。故郷を応援する「伊勢うどん大使」「松阪市ブランド大使」も務める。
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仮に少し寿命が縮んだとしても、大切な友達に会うことのほうが大事
「ありがとうな。東京に来られるとは思わんだわ」
三重に帰る新幹線で、母はポツリと言った。どう返せばいいのかわからない。残った体力を振り絞って東京の我が家に来たのは、小学校時代からの親友で東京の近くの埼玉県に住む「あきちゃん」に会うためだった。
ここで「会えてよかったな」と返すと、「最後に」という前置きがお互いに頭に浮かんでしまいそうだ。しんみりしても仕方ない。ほんの少し間を置いて「くたびれたやろ」と明るい口調で返すと、母も「そんなことない」と笑った。思い切って会いに行って、本当によかった。
母が世を去ったあと、あきちゃんが私たち夫婦に送ってくれた手紙には、お悔やみの言葉とともに「私の心の中には、元気に話をした4月18日のアッコちゃんがいつまでも生きています」と書かれていた。
2月に大腸がんのステージ4と診断された母は、手術や抗がん剤などの積極的な治療は受けず、退院して自宅で過ごす道を選んだ。4月上旬までは、食事には多少の制限があったものの、大好きなツクシ採りに行ったり私たちとお花見に行ったりタケノコご飯を炊いて近所の人に配ったりなど、今までどおり元気に過ごしていた。
埼玉に住むあきちゃんとは、長年にわたって月に何度も手紙のやり取りをしている。母が東京の我が家に来たときは、あきちゃんの家の最寄り駅まで送って行って引き渡し、5,6時間後にまた迎えに行くのが恒例だった。以前に「いつも同じ話ばっかりやけど、それが楽しいんさな」と嬉しそうに話してくれたことがある。
入院と病気のことを聞いて、あきちゃんは手紙に何度も「今すぐ飛んで会いに行きたい」と書いてくれていた。それを読んだ母も「会えたらええんやけどな」と呟いていた。控え目な言い方だが、どうしても会いたいという気持ちが伝わってくる。しかし、あきちゃんは腰の具合が悪い上に家族の介護もあって、遠出することは不可能だ。
「母は今のうちなら行ける。あきちゃんに会わせてあげたい」。私たち夫婦と弟夫婦は、そう考えた。会わないまま別れを迎えたら、母やあきちゃんはもちろん、私たち家族にもどれだけ悔いが残ることか。「行ってみよか」と提案したら、母も「そやな、行きたいな」と静かに言った。仮に命が少し縮んだとしても、大切な友だちに会って語らうことのほうがよっぽど大事である。
訪問診療の際に主治医に相談すると「いいですね。行ってきてください」と賛成してくれた。一貫して「残された時間の中で、患者さんがしたいことをさせてあげたい」というスタンスで支えてくれたのは、本当にありがたい。「あくまでお守りとして」と、旅先で病院に行く必要が生じたときのために「紹介状」も書いてくれた。
「また来てな」「また来るわ」と手を振り合った
4月17日、いよいよ「石原昭子の東京行き大作戦」のスタートである。ケアマネさんにお願いして車椅子をレンタルし、名古屋までの近鉄特急と東京までの新幹線は、車椅子を置くスペースがある席を予約した。乗り降りする駅では、待っていた駅員さんがドアにスロープを設置したり、エレベータまで案内してくれたりする。東京駅には、車椅子利用者のための専用待合室もあった。想像以上に至れり尽くせりである。
母の車椅子を押すのは複雑な心境だったが、感傷に浸っている場合ではない。なんせ慣れないことなので、真っすぐ進むだけでもひと苦労だ。あとで聞いたら、点字ブロックの上に乗ると少し衝撃を感じたらしい。気にせず揺らしてしまって申し訳なかった。
東京駅に迎えに来た妻のクルマに乗って、自宅に向かう。駅では駐車場に行くエレベータの場所がわからず、地下の管理室の入口に迷い込んでしまった。謝ってあわてて地上に戻ってキョロキョロしていると、作業服姿の男性が地下から私たちを追いかけてきて、ルートを案内してくれた。母が「親切な人やな」と感心していたのを覚えている。道案内も助かりましたが、母をあたたかい気持ちにさせてもらったことに深く感謝いたします。
翌18日の午前、クルマで一時間ほどのあきちゃんの家を訪ねた。「よう来てくれたなあ」「来られたわ(来ることができたよ)」と笑い合う二人。目には涙がたまっている。私と妻は「また夕方に迎えに来ます」と言って退散。どれだけ時間があっても、話が尽きることはないだろう。「どうしても会っておきたい友だち」がいて、母は幸せである。
手土産は、三重から持ってきたワラビとタケノコ、そして冷凍してあったツクシのお浸し。お昼に二人で食べるためのサンドイッチも買ってきた。あきちゃんは「プリンは食べられるって聞いたから」と、何種類ものプリンを用意してくれていた。二人でどんな話をしたのだろう。また「いつもと同じ話」で笑い合ったのだろうか。
帰るときは、ご主人も杖を付いて家の外に出てきて、あきちゃんと二人で見送ってくれた。「また来てな」「また来るわ」と手を振り合っている。「また」があってほしいが、その可能性は限りなく小さい。あえて「また」と口にすることで相手や自分を励ましていたのだろう。小学校に入学した日から77年間、楽しいことも苦しいことも分かち合ってきた二人の時間は、こうして大きな区切りを迎えた。
無事に三重に戻った母は「あんたらのおかげや」
東京にいる4日のあいだに、こっちの会社で働いている甥っ子(母にとっては孫)が二度も訪ねてくれたのも、さぞ嬉しかったに違いない。「こんなん食べるかなあ」と言いながら、タケノコご飯や山菜料理を作っていた。繊維質が多いものは食べられない母だが、甥っ子や私たちが「おいしい」と言って食べるのを満足そうに眺めていた。
あきちゃんに会った2日後、無事に三重に帰ってきた。主治医が用意してくれた「紹介状」も使わずに済んだ。駅に迎えに来てくれた弟夫婦は、母が東京に行っているあいだ、さぞ気を揉んでいたに違いない。「おかえり」と言った二人も、車椅子から「ただいま」と返した母も、心からホッとした表情を浮かべている。弟夫婦は、私にも「連れて行ってくれてありがとうな」と言ってくれた。
「石原昭子に悔いのない時間を過ごしてもらいたい」と結成された「プロジェクトチーム」には、母がやることに対して「心配だからやめたほうがいい」と言って反対するメンバーはいなかった。「心配を示す」という行為は、本人にそんな気はなくても、時に自己アピールや自己満足のためだったりもする。不毛なすり合わせをせずに済んだのは、母にとってもメンバーひとりひとりにとっても、幸運なことだったと言えるだろう。
東京への旅という大冒険を終えた母は、翌日に訪問してくれた看護師さんに「行けてよかったー。先生とあんたらのおかげや」と感謝を伝えていた。心から満足そうだった。だが、その翌週頃から徐々に元気がなくなっていく。お腹もふくらんできたようだ。看護師さんによると「腹水がたまってるみたいですね」とのこと。よくない兆候である。
主治医に東京行きを相談したとき、当人がいないところで「できるだけ早いほうがいいと思います」と言ってくれていた。間に合ってよかった。元気がなくなったのは東京に行ったこととは関係なく、そういう“タイミング”だったのだろう。
いよいよお腹が苦しくなってきた4月末、注射針を刺して腹水を抜いてもらう「腹水穿刺(ふくすいせんし)」をやってもらうことになった。母が旅立つまで、あと60日余り。今思えば、最後の日に向けてのカウントダウンが始まったのは、この頃である。もう少し長く元気で過ごせると、私たちもきっと母も思っていたが、そう都合よくはいかなかった。
つづく。
