『鎌倉殿の13人』37話「オンベレブンビンバ」の切ない正体、亡き者たちの記憶が巡る
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』37話。権力の座を諦めない北条時政(坂東彌十郎)とりく(宮沢りえ)ですが、鎌倉殿を政子(小池栄子)と義時(小栗旬)が支える新体制が始まり、対立が深まります。そんな一触即発の北条家に訪れたつかのまの団欒、そこで時政が発した謎の言葉の正体は……。「オンベレブンビンバ」(副題)の回を、歴史とドラマに詳しいライター、近藤正高さんが、歴史書を紐解きながら考察します。
いまは私の仕事を見て学べ
今回のサブタイトル「オンベレブンビンバ」とは何なのか気になるところだが、ひとまず後回しにして、いつものように順を追って物語を振り返ってみたい。
前回、義時(小栗旬)が父・時政(坂東彌十郎)に「しばらくおとなしくしていただきます」と言って、政治へのかかわりを禁じた。それでも時政は執権である以上、じっとしていられない。御所で義時が大江広元(栗原英雄)・三善康信(小林隆)・二階堂行政(野仲イサオ)と訴状について評議していると、ずかずか現れ、「なぜ、わしを呼ばん」と問いただした。しかし、そこで見せられた訴状はことごとく時政ではなく政子宛てであった。どうやら先の畠山追討後、政子(小池栄子)が時政に替わって御家人たちに恩賞を与えて以来、世間も政治のしくみが変わったと察したらしい。それでも懲りず、時政はひそかに行政を呼び、高野山からの訴えを退けるとの下知状を託そうとするが、行政が義時に相談したため、未然に阻止される。
なおも権力の座に恋々とする時政に、義時は「ご自分の引き際をお考えください」と言い放つ。時政は父親に向かってよくそんなことが言えるなと怒るが、義時に言わせれば、父親だからこそ言っているのであり、身内でなければもっと手荒なことをしていたという。しかし、今後は父上の出方しだいでは、かつての梶原景時や比企能員、畠山重忠と同じ道を歩むことにもなりかねないとも警告した。すなわち、時政が新体制に歯向かうような真似をすれば、謀反人として処置するというわけである。
義時は父への対処の一方で、息子の泰時(坂口健太郎)を実朝(柿澤勇人)の側近から外し、自分のもとで働かせるようにした。替わって実朝に仕えることになったのは、実衣(宮澤エマ)と亡き阿野全成の息子・阿野時元(森優作)だった。実朝は泰時が異動になったと知り、どこか寂しげな表情を浮かべる。泰時も父の強引ともいえる人事に不満げで、その理由を訊ねるも、義時はそのうちわかるとだけ答え、いまは私の仕事を見て学べと言う。
政子による政治も本格的に始まった。彼女自ら望んで、命令を与える下知状をしたためることにしたのだ。義時は、政子の書いた下知状を見て、ふと「ひらがなばかりでいいのだろうか」と疑問を呈す。仮名文字が生まれたのは平安時代だが、公文書は鎌倉時代に入っても従来どおり漢文で書くのが常識だったからである。それでも広元は、これこそ尼御台の文書という証しになり、御家人たちも喜びましょうと、目を輝かせる。このとき、政子から時政の動向を訊かれた義時は、「何か企んでいる気配があります」と答えた。
弟には気をつけろ
事実、ちょうどそのころ、時政は妻のりく(宮沢りえ)の提案で、実朝に替わり娘婿の平賀朝雅(山中崇)を鎌倉殿に据えようとしていた。そこで時政夫妻が協力を求めたのが三浦義村(山本耕史)である。その際、義村には、もし朝雅が鎌倉殿に就いたら、そのあとには義村が乳母夫として養育してきた善哉(前鎌倉殿・頼家の息子、のちの公暁)を継がせると約束する。もっとも、時政には端からそんなつもりはなく、朝雅のあとの鎌倉殿には、自分の娘と朝雅のあいだに生まれた息子を継がせるつもりでいた。
当の朝雅は京に滞在中で、時政からの文でこの策略を知らされたものの、こんなときに鎌倉殿になるなど恐ろしすぎると、その気はまったくなかった。「鎌倉でこの先何が起こるかまったく読めん。一つ手を間違えると命取りぞ」と言っているのを見ると、彼には当分のあいだ鎌倉に戻るつもりはないのだろう。
それでも時政は着々と計画を進める。実朝がきょうも和田義盛(横田栄司)の館に出かけた(今回は実衣の勧めで八田知家が護衛役として同行したのだが……)との情報を得るや、その隙を狙って実朝を義村・胤義(岸田タツヤ)兄弟に連れて来させ、出家する旨の起請文を書かせるというのだ。実朝が御所を離れるとの情報をもたらしたのは、例の側近になったばかりの阿野時元であった。時元は、自分も源氏の血筋にもかかわらず、一緒に育った実朝との扱いの違いに常日頃より納得がいっていないゆえ、この企てに乗ったという。
時元は、父・全成に続いて殺された頼全の弟ということになる。一緒に育ったという意味では、実朝は実の兄弟にも等しい存在であったともいえる。だが、母親の実衣は、実朝を立てるあまり、実の息子である時元を冷遇するところがあったのかもしれない。知らないうちに恨みを買う実朝には、甥にあたる亡き一幡の弟・善哉しかり、つくづく「弟には気をつけろ」と言いたくなる。
「オンベレブンビンバ」の正体
さて、時政の策略にまんまと協力させられたかに見えた三浦義村だが、彼なりにちゃんと思惑があった。あとでちゃんと義時に通報し、「よくまた裏切ってくれたな」と皮肉交じりに礼を言われる。義村としても、善哉を朝雅のあとの鎌倉殿にすると時政が言ったのはウソだと気づいていた。自分に利がない企てである以上、義時に知らせてつぶしたほうが身のためとの判断だろう。義時は義時で、自分は何も知らなかったことにするとして、義村にはそのまま時政に従うよう命じる。
義時は政子にさっそくこのことを報告するが、時政が誰の目にもあきらかな謀反を起こすまでは泳がせるつもりであった。それでも政子は実朝が危ない目に遭わないかと心配する。そこへ何と時政がひとりで現れた。それも酒と肴を持って。一体どういう風の吹き回しか。ともあれ、実衣や時房にも声をかけ、久々に父と子供たちが水入らずで会することになった。
謎が謎を呼んだ今回のサブタイトル「オンベレブンビンバ」の正体があきらかになったのは、このときだ。筆者が前回レビューで予想したとおり、それはやはり、早世した大姫がかつて祖父である時政のために唱えたおまじないの文句だった。ただ、大姫が言っていたのはそれではなかったと、子供たちからすぐに反論が出て、ここから皆で記憶をたどって「ピンタラポンチンガー」だの「ボンタラクーソワカー」だのと言い合うことになる。
結局、正解の「オンタラクソワカ」にはたどり着かなかったとはいえ、大姫の記憶を介して久々に家族が心を通わせ、しばし争いを忘れて楽しい一時をすごすことができた。前々回、愛息を失い悲嘆に暮れるりくを慰めるため、時政が語っていた「割れた皿は元には戻らない。しかし、皿に盛った料理のことは忘れはしない」とは、まさにこういうことだろう。
だが、それもつかの間、和田義盛の館から実朝が三浦兄弟の手で名越にある時政の館に連行される。八田知家(市原隼人)からその一報を受け、義時は出兵を命じた。それにしても、実朝を館に押し込めるとはあまりに無謀すぎる。しかし、時政だってりくの言うとおりにすれば行き詰まることはとっくに気づいているはず。それでも時政はあえてその道を選んだのだ――と義時が冷静に分析すると、「どうするつもり」と政子に訊かれた。そこで「父上はおそらく……」と言いかけたのだが、政子が訊きたかったのは義時自身がどう決断するかであった。
これを受け、彼は泰時をなぜ自分のそばに置いたのか、本人に向かって「父の覚悟を知ってもらうためだ」とその理由を明かす。そのころ、名越の館では時政が実朝に対し、出家して鎌倉殿の座を朝雅に譲るという起請文を書くよう、じりじりと迫っていた。もはや万事休す。義時はついに「執権・北条時政、謀反。これより討ち取る!」と宣言した。しかし、泰時はそれを止めようとし、政子も「命だけは助けてあげて」と頼むが、義時は「それをすれば北条は身内に甘いと日本中からそしりを受けます」と叫んで断固たる姿勢を示した。
この間、実朝は義時や政子と相談したいと言っておそらく生まれて初めて抵抗を示すが、時政は許さず、とうとう刀を抜いてしまう。時政と義時の戦いの火ぶたが切られた瞬間であった――。
亡き者たちの記憶
時政が計画を実行する前に子供たちと酒を酌み交わしたのは、あとで義時が気づいたとおり、別れを告げるためであった。それは状況こそ違うが、死期を悟った頼朝がゆかりのある人々を訪ねて回ったことを思い起こさせる。そういえば、あのとき頼朝は時房のこねた餅を喉に詰まらせ、危うく死期を早めるところだった。それが今回は、時房が父のため餅を用意するも、柔らかさを確かめるためやたらと触るので、時政から食べるのを拒絶されてしまった。
それにしても、時政は失敗するとわかっていながら、なぜ謀反におよんだのか? それは息子を失って傷心のりくの望みをできるかぎりかなえてやりたいという、夫としての優しさではなかったか。それとともに、どうせ殺されるなら、愛する妻と一緒にという思いもあったのかもしれない。
義時が時政の謀反を受けて、政子の助命の願いを退けたのには、今回、自分の妹で畠山重忠の妻であるちえ(福田愛依)に、重忠の遺言どおり畠山の本領を相続させようとしたときに言われた言葉の影響もあるのだろう。このときちえは、時政と政子の勧めを「そんなことをすれば北条は身内に甘いと陰口を叩かれます。謀反人は謀反人らしく厳しくご処断ください」と言って拒否していた。なお、長澤まさみのナレーションにもあったとおり、史実では畠山重忠の妻はのちにその本領で再婚し、生まれた子は畠山の名を継いだ。その再婚相手は足利一門(足利義純)で、その子・泰国より始まる畠山氏の嫡流は室町幕府の管領家(管領とは鎌倉幕府の執権に相当する要職)のひとつとなる。
今回は大姫のまじないといい、亡き者たちの記憶が鎌倉の人々のあいだを駆け巡る回だった。和田義盛が、上総広常の武勇伝を自分の話に改変して実朝に語って聞かせていたのは一体どういう心境からであったのか。一方で生まれ来る者もあり、義時の新妻・のえ(菊地凛子)は子供を授かった(『吾妻鏡』では義時の妻は重忠追討の当日に出産したと記されている)。そののえは、実朝の妻・千世(加藤小夏)と同じ京出身のはずなのに、いまひとつ話が噛み合わないのが気にかかる。
どうしても暗くなりがちな展開の今回にあって、先の時政と義時たちの酒宴とあわせ、笑いどころとなっていたのが後鳥羽上皇(尾上松也)が似絵の腕前を披露したシーンである。平賀朝雅から特徴を聞いただけで、上皇は会ったことのない時政の顔を見事に再現して感心させるも、いささかデフォルメを好むきらいがあり、藤原兼子(シルビア・グラブ)、そして慈円(山寺宏一)の似絵は本人たちから破り捨てられてしまった。どちらも鼻に特徴のある絵であった。
実際の慈円は、鼻先が上唇のあたりまで伸びた似絵が残っており、山寺宏一はこの役に起用されるにあたり、作者の三谷幸喜からその絵のとおり鼻を伸ばせるかと訊かれたという(ニッポン放送『戸田恵子 オトナクオリティ』9月25日放送分)。ちなみに慈円の似絵を描いたのは公卿で歌人の藤原為家である。為家にとって慈円は歌作について励ましてくれた存在だけに、おそらくその絵に悪意はなく、敬意を込めて描いたのだろう。
じつは三谷自身もまた似顔絵を描くのが好きで、高校時代には歴代首相などの“作品”を残している(興味のある向きは、朝日新聞出版刊『三谷幸喜のありふれた生活15 おいしい時間』の巻末に収録されているのでチェックしてみてください)。上皇が楽しそうに似絵を描く姿は、そのまま三谷の少年時代の姿であったに違いない。
文/近藤正高 (こんどう・ まさたか)
ライター。1976年生まれ。ドラマを見ながら物語の背景などを深読みするのが大好き。著書に『タモリと戦後ニッポン』『ビートたけしと北野武』(いずれも講談社現代新書)などがある