『鎌倉殿の13人』35話「我らがいわれなき罪で責められてもよいのかっ!」畠山重忠(中川大志)怒りの拳
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』35話。3代鎌倉殿の源実朝(柿澤勇人)の結婚相手が京より到着。だが連れて帰ってくるはずだった北条政範(中川翼)が急死。その死因に対して息子にあらぬ疑いをかけられた畠山重忠(中川大志)の怒りが新たな争いの火種になりそうな……。「苦い盃」(副題)の回を、歴史とドラマに詳しいライター、近藤正高さんが、歴史書を紐解きながら考察します。
実朝(柿澤勇人)と歌集
源実朝が生まれた建久3年8月9日は、同時代に西洋で使われていたユリウス暦では1192年9月17日にあたる。したがって、きょうは彼の830回目の誕生日ということになる。ただし、現在使われるグレゴリオ暦では1週間ずれて9月24日となるのだが。いずれにせよ、実朝が暑さもひと段落ついた初秋に生まれたことに変わりない。
その実朝(柿澤勇人)に、誕生日プレゼントではないが、母親の政子(小池栄子)が自ら書き写した手製の歌集がこっそり贈られ、すっかり彼を夢中にさせていた。第35話の冒頭では、それが母からの贈り物であると三善康信(小林隆)から伝えられた実朝が、すぐさま、そのなかから一首を指し、この歌はどなたの作かと訊ねた。それは「道すがら富士の煙もわかざりき晴るるまもなき空のけしきに」という歌であった。
政子に直接問うと、それは誰あろう亡き父・頼朝が詠んだ歌であった。直訳すれば、富士の噴煙もわからないほど雲が多くて晴れ間がなかったと、道中の情景を歌ったものである(富士山はその約100年前に噴火していた)。だが、政子によれば、頼朝は狩りに行った帰りがけ、ようやく空が晴れて富士がはっきり見えたときにこの歌を詠んだという。ここから彼女は、「あなたも不安なことがあるかもしれない。でも父上もそうだったのです。励みにして」と言って、「鎌倉殿も思いを歌にしてみてはいかがですか」とさりげなく勧めるのだった。
当時結婚を控えていた実朝は、不安を抱いていたがゆえ、その歌に似たような心境を読み取ったのかもしれない。それから間もなくして、元久元年(1204)12月10日、結婚相手である後鳥羽上皇のいとこ・千世(加藤小夏)が京より到着する。だが、本来彼女を連れてくるはずだった北条政範(中川翼)は上洛中に急死し、代わりに平賀朝雅(山中崇)がその役を担って鎌倉に戻ってきた。
政範は執権・時政(坂東彌十郎)とりく(宮沢りえ)の一人息子で、朝雅は時政夫婦の娘の夫である。娘婿も同行のうえ京へ見送った息子の身の上に一体何があったというのか。りくは悲嘆に暮れ、千世と会おうともしない。
じつは、政範は、朝雅からひそかに毒を盛られて殺されていた。義時(小栗旬)はその事実を、畠山重忠(中川大志)の息子・重保(杉田雷麟)から知らされる。重保も政範に同行し、彼が宴の最中に倒れる場に居合わせたばかりか、その前夜には朝雅が何者かに毒物らしきものを渡され、相談する様子も目撃していた。そのため政範が亡くなったあとで朝雅を問い詰めたが、しらを切りとおされたという。義時はこれを聞き、こちらで調べてみると約束する。
それに先んじて朝雅が動いていた。りくに会って、政範は畠山重保によって毒殺されたと讒言したのだ。畠山一門は武蔵の国務をめぐり時政ともめている最中だけに、殺害の動機はあるとでっちあげ、重保はあろうことか自分を下手人に仕立て上げようとしているとまくし立てた。そんな朝雅の言い分をりくは信じてしまう。彼女はさっそく時政にこのことを伝え、いますぐ畠山を討つよう懇願する。
このあと義時が朝雅を直接問いただし、限りなく疑わしく思われたとはいえ、確証は得られなかった。義時はひとまず時政に対し、とにかくこの一件に関しては軽はずみに答えを出すべきではないと釘を刺した。しかし、すでに時政にはりくがいますぐ畠山を討つよう息巻いており、彼としても動かずにはいられなかった。力を貸してくれと頼む父に、義時は厳しい目で、たとえ執権であろうとこの鎌倉で勝手に兵を挙げることはできないと諫める。これに乗じて一緒にいた時房(瀬戸康史)も「父上。義母上に振り回されるのはもうおやめください」と時政に忠告するのだが、「うるせえ!」と一蹴され、兄の義時からも「最後のはよけいだった」と言われてしまう。だが、じつはこの場面で一番よけいだったのは、義時が時政に対し付け加えた「鎌倉殿の花押(サイン)を据えた下文がないかぎり、勝手に動くことはできませぬ」との一言であったことが、のちのちあきらかになる。
畠山重忠(中川大志)の怒り
義時は三浦義村(山本耕史)からも、「次郎(重忠の通称)を甘く見るな」「あれは優男だが、必要なら立場を変える覚悟を持ってる」と忠告されると、りくを抑えるべく、政子に彼女と直接会ってなだめてもらう。しかし、なぜかりくは、畠山を討とうなどゆめゆめ思ったこともないような素振りを見せる。これに政子はすっかり安堵してしまうのだが、おそらく朝雅はりくに、誰から訊かれてもそう答えるようあらかじめ吹き込んでいたのだろう。
当の朝雅は、彼と重保を並べて取り調べてもらうよう重忠が義時に申し入れたときには、京に再び戻っていた。重忠はそれを知って、朝雅は後ろめたいから逃げたのだと断定し、すぐに連れ戻して討ち取りましょうと迫った。しかし、朝雅は後鳥羽上皇の近臣でもあるだけに、下手に手を出せば京を敵に回しかねないと、義時は及び腰であった。これにとうとう重忠は怒り心頭に発し、「我らがいわれなき罪で責められてもよいのかっ!」と叫ぶと、思わず拳を床に叩きつけて穴を開けてしまう。
義村の言っていたとおり重忠の覚悟を思い知らされた義時は、改めて時政を訪ねると、「次郎を罰するようなことがあれば、必ず後悔しますぞ」と説得し、畠山討伐を待つよう約束させる。
こうして時政も一旦は矛を収め、りくにも「政範のことはもう少しよく調べてから」と説明したのだが、彼女がそれで黙るわけもない。かつての梶原景時や比企能員の例をあげて、より多くの御家人を従えなければすぐに滅ぼされるとして、いますぐ畠山や足立遠元を退けて北条が武蔵を治めるよう強く迫った。これに対し時政は「りく、やっぱりわしら無理のしすぎじゃねえかな」となだめるも、「政範だけでは済みませんよ。次は私の番かもしれないのです」と言われた途端に顔色が変わる。ついに腹を決めると、先の義時の言葉の裏をかいて、鎌倉殿である実朝から、畠山追討を命じる下文に花押をもらうため御所へ向かった。
そのころ、実朝は泰時(坂口健太郎)とその幼馴染・鶴丸(きづき)を伴って御所をこっそり抜け出していた。行き先は和田義盛(横田栄司)の館だ。義盛のもとには前回、義時と八田知家(市原隼人)とともに初めて訪ねたところ思いのほか居心地がよく、その際、また来てくださいと社交辞令で言われていたのをつい真に受けて再び来てしまったのだ。
義盛は面白いところがあると言って、若い3人を寺の境内に布でつくられた小屋へ連れて行く。そこでは、かなりの高齢と思しき歩き巫女(大竹しのぶ)がおり、あれこれ占ってくれるという。巫女は義盛に促され、さっそく裏返した亀の甲羅に貯めた水を葉っぱで叩き、呪文を唱えると、泰時は双六が嫌いだと見抜いたかと思えば、実朝には雪の日には出歩かないよう忠告した。
実朝はこのあともずっと巫女にあれこれ訊いていたらしい。いつしか日も暮れ、御所では実朝が姿をくらましたと大騒ぎとなっていた。折悪くそこへ時政がやって来たので、実朝の乳母の実衣(宮澤エマ)が何とかごまかして帰ってもらう。だが、時政は周囲を捜索していた近習たちに訊いて、実朝が行方不明だと知ってしまった。
夜も更け、御所では、実衣が時政の来たことを政子や大江広元(栗原英雄)に伝えると、一緒にいた時房が、きっと実朝の花押を求めて訪ねてきたに違いないと察する。そこで4人は、実朝を絶対に時政に引き合わせないよう示し合わせたところ、当の時政が現れた。だが意外にも彼は、きょうはお引き取りをと皆から言われると、あっさり出ていった。続いて広元も、念のため廊下を確認したうえで辞去する。
しかし、よもや時政がその後も御所にとどまり、暗闇に潜んで実朝を待っていようとは誰も思わなかった。その後、実朝が無事に御所に戻ると、時政はそばに誰もいなくなったのを見計らって例の下文を差し出す。実朝は、その内容も知らず頼まれるがままに花押をしたためてしまう。
義時はちょうどこのとき、武蔵に戻った重忠の館を訪ね、盃を交わしていた。まさか鎌倉でそんなことが起こっているとはつゆ知らず、時政はひとまず説き伏せたと報告すると、重忠には早急に鎌倉に戻って時政に潔白を誓う起請文を出すよう説得した。しかし、北条の手口を知り抜いた重忠は、「私を呼び寄せて討ち取るつもりではないでしょうね」と鎌をかける。義時は苦笑しながら否定するも、重忠は畳みかけるように「私を侮っては困ります。いちど戦となれば一切容赦はしない。相手の兵がどれだけ多かろうが、自分なりの戦い方をしてみせる」と凄んだ。
重忠はさらに「もし、執権殿と戦うことになったとしたら、あなたはどちらにつくおつもりか」と訊ね、義時が答えられずにいると、その心中を見透かすように「執権殿であろう。それでよいのだ。私があなたでもそうする。鎌倉を守るために」と述べた。図星を突かれ、義時は「だからこそ戦にしたくはないのだ」と言い逃れようとするが、重忠はさらに痛いところを突いてくる。
重忠「しかし、よろしいか。北条の邪魔になる者は必ず退けられる。『鎌倉のため』とは便利な言葉だが、本当にそうなのだろうか?(と義時に向き直ると)本当に鎌倉のためを思うなら、あなたが戦う相手は……」
義時「それ以上は……」
重忠「あなたはわかっている」
義時「それ以上は……!」
重忠の爛々と光る目にすっかり本心を見抜かれ、義時は何も言えない。しかし、自分の真の敵が重忠ではないことは十分にわかっていたはずだ。このあと鎌倉に戻った義時はそれでも悩みながら重忠と戦うことになるのだろう。しかし、重忠の言葉はきっと彼の行動に大きく影響をおよぼすに違いない。
大竹しのぶの演技力!
今回は、北条と畠山が一触即発の状態に陥り、緊張感が高まるなかで、実朝がお仕着せの結婚に悩んで御所から抜け出し、一瞬とはいえ解放感を味わうシーンがバランスよく配置されていた。大竹しのぶのサプライズ出演には驚いたが。その大竹演じる歩き巫女(各地をまわって占いや祈祷などを行う巫女)は、鋭いようでいて、適当に言っているのではないかと思わせるところもあって妙に可笑しかった。たとえば、実朝に「弟に気をつけろ」ならともかく「雪の日に出歩くな」と言っていたのも、的を射ているのか、それとも思いつきで言ったのか、いまいち判然としない。あるいは実朝が、自分の思いとはかかわりないところで決まった結婚に悩んでいると告白したことに対する回答もそうかもしれない。
「おまえの悩みはどんなものであっても、それはおまえひとりの悩みではない。はるか昔から同じことで悩んできた者がいることを忘れるな。この先もおまえと同じことで悩む者がいることを忘れるな。悩みというのはそういうものじゃ。おまえひとりではないんだ、けっして」
こうして文字に起こすと、さほど中身のあることを言っているわけではないような気もする。それが大竹しのぶの手にかかると、ものすごく深いことを言っているように聞こえるのだから、改めてその演技力に驚かされる。そもそも巫女は、実朝の悩みに直接答えを出したわけではない。いや、実朝は単に悩んでいることを誰かに知ってほしかっただけなのではないか。だからこそ巫女からああ言われて、涙を流すほど感激したのだろう。
さて、今回、畠山と北条の対立に火をつけた、北条政範の急死および平賀朝雅と畠山重保の諍いは、『吾妻鏡』ではとくに関連づけられることもなく、あくまで別々の出来事として記述されている(元久元年11月13日および20日条)。しかもそれら記事によれば、政範が死んだのは11月5日、朝雅が酒宴で重保と口論したのはその前日の4日と、ドラマとは時系列が逆である。そこを三谷幸喜はあえてひっくり返し、朝雅と重保の口論を政範の死後に設定し、『吾妻鏡』には言及のないその内容も政範の死因をめぐっての争いだったと物語を味つけしてみせたわけである。
時政の妻のりく(『吾妻鏡』では牧御方=牧の方と称される)が朝雅に讒言されたのを機に、時政が畠山追討を決めたというのも『吾妻鏡』の記述にもとづく。ただ、その時期は年をまたいで元久2年(1205)6月のことである。
それにしても、りくに頭が上がらない時政を見ていると、義時も再々婚相手であるのえ(菊地凛子)に対してもいずれそうなってしまうのではないかと、一抹の不安も覚える。のえについては今回、義時から紹介された三浦義村が、繕い物をしていたと言う彼女の指先に米粒がついているのを見逃さず、あとで義時に「握り飯を食べながら裁縫するやつがいるか?」と忠言していた。このときの義時の渋い表情を見るにつけ、つくづく前回、彼女との初対面の場に義村が立ち会っていなかったことが惜しまれる。こちらの夫婦の行方も気になるところだ。
文/近藤正高 (こんどう・ まさたか)
ライター。1976年生まれ。ドラマを見ながら物語の背景などを深読みするのが大好き。著書に『タモリと戦後ニッポン』『ビートたけしと北野武』(いずれも講談社現代新書)などがある