比叡山大阿闍梨が説く”乱れた家”の正体「ものには置くべきふさわしい場所がある」
ただ暮らしているだけで積もるほこり、生活をしていれば必ず出る汚れ物やゴミ、そのひとつひとつの掃除を「苦手」「やる気が出ない」と感じる人は少なくない。毎日の掃除が少しでも楽になるようにと、掃除術ばかり知りたがるが、比叡山大阿闍梨(ひえいざんだいあじゃり)・光永圓道(みつながえんどう)さんは、「掃除を始める前の準備こそが大切」と話します。それはどういう意味なのか詳しい話を伺った。
「掃除を始める前」の準備こそが大切
掃除の「基本のキ」は、雑巾のかけ方やキッチンシンクの磨き方といった「手法」ではありません。「掃除を始める前」の準備にこそ注目していただきたいと思います。
世間一般において、神社仏閣は「いつ行っても綺麗だ」、「整理整頓が行き届いている」と、お褒めの言葉を頂戴することが少なくありません。僧侶や神主さんにとって、神社仏閣が聖域であるという大前提はあるものの、それだけが「整っている」理由ではないのです。
たとえば、多くのものが乱雑に散らばった室内であっても、不思議なことに一か所だけは綺麗に整っているのです。それは仏壇です。
仏さまを安置し、御先祖さまを供養する場所ですから、丁寧に扱うのは当たり前ですが、私はハタと気づいた瞬間がありました。ものが乱雑に散らばった家の中でも、仏壇だけが乱れていないのは何故か。それは、シンプルな理由でした。
ものにはそれぞれ「ふさわしい場所」がある
仏壇に置かれたものには、すべて「ふさわしい場所」が与えられていたのです。御本尊や御先祖さまの位牌、過去帳、仏飯器や燭台、香炉、線香立てまで、とにかく仏壇にはたくさんのものが並びます。けれど、これらはいずれも決まった場所に置かれ、「その場所」を「他のもの」が占拠する、つまり「置き場所がなくなる」ということはありません。
御本尊は最上段の真ん中、中段の真ん中には過去帳、その左右には向かって右に仏飯器、左には茶湯器、その外側には御先祖さまの位牌、下段には香炉に燭台、さらに下には線香立てや数珠。このように、ものが整然と並んでいれば、長期間にわたってほこりを払わずとも、汚れていると感じることは少なくなるはずです。
実際、お寺に御鎮座する仏さまや脇侍(きょうじ)さまに対して、私たちは日常的にはたきをかけたりは致しません。お堂の床を丁寧に拭くだけで、御本尊は輝くのです。
決められた位置に置くだけで整然とした印象に
ひとつひとつのほこりを落とし、磨くということをしなくとも、雑然としているものが所定の位置に収まっているだけですっきりとした佇まいになります。ものの置き場所を決め、出したものは戻す。それだけで住まいの美しさは保たれるのです。
掃除とともに心がけたい「元の場所に戻す」ということ
「掃除を始める前」の準備は、家の中にあるものに「ふさわしい場所」を与えることから始まります。床に散らばっているもの、部屋の隅に積み重ねられたもの。
絶対のルールとして申し上げますが、床は歩き、座る場所です。決して「ものの置き場所」ではありません。放り出した本や雑誌は、所定の本棚に仕舞いましょう。もし溢れてしまうとすれば、本棚に収められた書籍に「優先順位」をつけ、収納できる分以外は処分するか、どなたかに譲るしかありません。なぜなら本や雑誌の置き場所は、本棚だからです。
同様に、洋服は洋服ダンス。食器は、食器棚。靴は下足箱へ。どうしてもものは増え続ける傾向にありがちですが、あるべき場所に仕舞い切れないものは手放すよう心がけましょう。ものが散らばった状態こそが「乱れた家」の正体だからです。仏壇のように、ものの「置き場所」さえ決めれば、家の中は片づいたも同然。「掃除」を始めるのは、それからです。
教えてくれた人
光永圓道さん
覚性律庵 住職/比叡山麓 覚性律庵 滋賀県大津市仰木4-36-20
撮影/黒石あみ(本誌)
●比叡山大阿闍梨・光永圓道師が説く”掃除”の極意「毎日の掃除は良く生きるための儀式」