比叡山大阿闍梨・光永圓道師が説く”掃除”の極意「毎日の掃除は良く生きるための儀式」
ただ暮らしているだけで積もるほこり、生活をしていれば必ず出る汚れ物やゴミ、そのひとつひとつの掃除を「苦手」「やる気が出ない」と感じる人は少なくない。しかし、「掃除は生きること」と捉えたらどうだろう。誰のためでもなく、自分が心地よく、ケジメを持って生きるために住まいや働く場所を整えることで、知らず知らずのうちに心や体にたまっているもやもやとしたストレスも清められる。難行苦行を重ねた僧侶である比叡山大阿闍梨(ひえいざんだいあじゃり)・光永圓道(みつながえんどう)さんが説く「生きることと、掃除」の極意とは。
「掃除は人生を整えること」
私は、15才で仏門に入りました。といっても、生家がお寺だったわけではありません。
きっかけは重度の小児喘息です。小学生の頃はなんともなかったのですが、中学校に入ってすぐに発作がでるようになり、2年生になると症状が悪化してほとんど学校に行けない状況になってしまいました。快復の見通しも立たず、このままでは死んでしまうのではないかと子供ながらに恐怖を感じていたとき、母の知人がお山(比叡山延暦寺)を紹介してくれました。そんな経緯でしたので、この時点ではまだ、私は仏さまに対する篤い信仰心を持っていたとはいえません。
それでも普段暮らしていた東京の街とは違い、お山ではいわく言い難い心地よさを感じたことを覚えています。清澄な気配に包まれて背筋が伸び、息苦しさから解放されたような気さえしました。もしかすると、ここでなら生きられるかもしれないと思ったのです。中学を卒業後、私はお山の麓(ふもと)にある比叡山高校へ進むことを決めました。
当時、千日回峰行中だった光永覚道阿闍梨を師僧として得度(とくど)し、延暦寺の南側にある無動寺谷(むどうだに)明王堂で、小僧生活を送りながら通学する暮らしの始まりです。小僧とは、師僧のもとでお手伝いをしながら仕える、お坊さんの見習いのような立場をいいます。当時の明王堂には、6、7人の小僧がいました。
小僧時代、掃除は朝の日課
小僧の朝は早く、毎日4時半過ぎには起床。仏さまにお供えするお茶(仏茶)を用意したら、5時からの勤行(お経を上げる)の前に、法衣に着替えてお参りして回ります。
仏さまへの御挨拶を終えたら、作務衣に着替えて掃除にとりかかります。最初に手をつけるのは、師僧や小僧の生活の拠点となる政所(まんどころ)のトイレ。それから玄関、屋内の部屋、廊下の掃除と、朝食の準備などを手分けして進めていきます。
いずれの場所においても、まずははたきをかけ、それから床を掃く。または掃除機をかける。常に、上から下へと進めていくというのが、掃除の基本です。
朝の掃除が済んだら朝食をとり、片づけをします。私のように学校へ通っていた小僧たちは、8時直前になるといったん作務(※1)を打ち切り、ケーブルカーに飛び乗って山の麓にある学校に通う毎日でした。
他方、通学のない小僧たちは、まだ手をつけていない各所の掃除を続けながら、お参りに見えたかたがたのお斎(昼食)や、午前11時からの護摩行(※2)の準備を進めます。その合間に自分たちの昼食をとり、お斎の給仕(接待)と片づけ、護摩行が終わればただちに護摩壇の掃除と、気を抜く暇はありません。
学校を終えた小僧も、夕方に帰るとすぐ作務に戻ります。本堂や参道の掃除、夕飯の支度とお風呂を沸かすための薪焚きを同時並行でおこない、大切な勤行も務めます。
夕食の後は、台所の掃除。師僧がお下がりになったら、居間の掃除。浄衣(※3)の洗濯、アイロンがけと続く間に、小僧たちは順番に風呂に入ります。最後に入浴した小僧が風呂掃除を済ませたら、この日の作務も一区切り。たいていは夜の9時頃で、もう眠たくなっています。
小僧生活のほとんどが「掃除」に占められていることに驚くかたもいらっしゃるかもしれません。しかし、仏門に入る者にとって、この暮らしは大切な役割を担っているのです。
一に掃除、二に看経、三に学問
一に掃除、二に看経、三に学問――。仏教の世界には、こんな言葉があります。
お釈迦さまの弟子であるチューラ・パンタカは、いつまで経っても自分の名前さえ覚えられず、周囲の者から嘲笑されていました。お釈迦さまはある日、彼に1本のほうきを授けて言いました。
「塵(ちり)を払わん、垢(あか)を除かん」
チューラ・パンタカがこの一節を唱えながら、来る日も来る日も掃除を続けると、塵とは心を曇らせるもの、垢とは心にこびりついた執着なのだと、ついに悟りを得たといいます。
法話の解釈はかならずしもひとつではありませんが、私はこれを「物事の順序」を示すものと考えています。
一に、掃除。
掃除をするのは誰かのためではなく、何よりも自分のためです。掃除をすれば、自分が心地よくなり、自分の今いる「環境」が整理整頓されます。快適な環境を嫌う人はどこにもいないでしょう。私たちは、仏さまのためと申し上げる前に、まず私たち自身のためにお寺やお堂を掃除します。そこが、私たちの暮らしている場所だからです。皆さんにとってその場所は自宅や勤め先の机、ロッカーなどでしょう。
二に、看経(お勤め)。
僧侶は、仏さまに対してお勤めをします。普段私たちがお経を上げているときには、皆さんは家事に勤しみ、あるいは会社で仕事をなさっているはずです。固く絞った濡れ雑巾をかけ、つやつやと輝く板間で上げるお経と、ほこりの舞う白くカサついた板間で上げるお経。どちらが心地よいでしょうか。どちらがお勤めに集中できるでしょうか。同様に、ゴミが散らばる部屋での家事、乱雑な机での作業はきっと心地よくはないはずです。
三に、学問。
一、二と順序を踏み、整った環境でお勤めに励んでいるとき、ここまで来て初めて「向上心」と向き合う余裕が生まれます。この「学問」の意を「究明」と捉える方もいらっしゃいますが、私は向上心と呼びたいです。高みを目指したいという気持ちは願望であり、ときには執着に繋がります。
しかし、たとえばスキーのジャンプを始めたばかりで小さなコブを飛んだだけの人が、感情のおもむくままにいきなりラージヒルからジャンプしたとすれば大怪我は免れないでしょう。焦らず、少しずつ、徐々に、何事も肝心なのは順序です。そのための、すべての土台は「心地よい場所」から始まります。
何はさておき「掃除」だけが、その場所を生み出せるのです。
(※1) 僧が行う掃除などの作業 (※2) 火を用いて祈りを捧げる修行 (※3) 回峰行者だけが着用を許される白い法衣
千日回峰行とは何か?
平安時代の天台宗(総本山は比叡山延暦寺)の僧侶、相応和尚(そうおうかしょう)が開祖とされ、現在まで1000年以上続いている荒行。無動寺谷明王堂を拠点として比叡山の山上山下を7年かけて歩いて巡拝する。その距離は、地球一周に相当する約4万kmである。
1年目から3年目までは、深夜から朝にかけて比叡山中の7里半の巡拝を100日続ける。
4年目と5年目は同じ巡拝を200日。700日満行の後、9日間にわたって明王堂に参籠し断食、断水、不眠、不臥(横にならない)で一心に不動明王を念じる。
この命がけの「堂入り」を満行すると「生身の不動明王」ともいわれる当行満阿闍梨(とうぎょうまんあじゃり)となり、自分のための行(自利行)から衆生救済の化他行に入る。
6年目は15里の巡拝(赤山苦行)を100日、7年目は21里の巡拝(京都大廻り)を100日、そして比叡山中の巡拝を100日で千日回峰行を満行し大行満大阿闍梨(だいぎょうまんだいあじゃり)となる。
千日回峰行において、行の中断はゆるされていない。途中で行を続けられなくなった場合は、自害しなければならないため、行者は浄衣(白装束)を着け、首吊り用の紐(死出紐)や、三途の川の渡し賃といわれる六文銭を携えている。
光永圓道阿闍梨の大師匠(老僧)である故・光永澄道師は戦後7人目、師僧である光永覚道師は戦後10人目、光永圓道阿閣梨は戦後13人目で、織田信長の延暦寺焼き討ち以降の記録では50人目の大行満大阿閣梨である。
教えてくれた人
覚性律庵住職・光永圓道さん 比叡山麓 覚性律庵 滋賀県大津市仰木4-36-20
撮影/黒石あみ(本誌)
※女性セブン2022年9月8日号