85才、一人暮らし。ああ、快適なり【第25回 トルとドス】
85才の矢崎泰久さんは、キラ星のように輝く”時の人”をスタッフ、執筆陣に迎え、伝説の雑誌となった『話の特集』の編集長を長年務め、テレビや舞台などでも敏腕プロデューサーとして活躍した人だ。
現在は、自らの生き方を貫くため、高齢になってからあえて、家族と離れ、一人で暮らしている。
その生き方や思いを、シリーズで寄稿していただく。今回のテーマは「トルとドス」。さて、あなたは、トル派?それともドス派?
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ロシア文学の洗礼がその後の生き方につながった
古(いにしえ)の文学青年ならピンと来るだろう。戦後間もない頃に学生生活を送った者は、ロシアの文豪、トルストイとドストエフスキーの何れかに強い影響をを必ず受けたものだ。
それも、二人同時ではなく、どちらか一人に傾倒した。
トルストイ好きを「トル」、ドストエフスキー好きを「ドス」と言った。互いに相容れることはなかった。
トル派は信仰心があり、純粋で極めてロマンチストだった。正義と愛を大切にした。
ドス派は実存的で、非常に懐疑心が旺盛だった。冒険心に富み、ギャンブルを好む傾向があった。
大ざっぱに分けると、ま、そんなところだ。
私は、無論ドス派だった。トルストイという大きな山が眼前に聳(そび)え立っているが、少し遠ざかると、その背後に、もっと巨大な山が見えてくる。それがドストエフスキーだと胸をキュンとさせていたのである。
ロシア文学の洗礼を受けたことは、その後の生き方につながることになった。ドストエフスキーを理解するために、ロシアの歴史を学び、ドストエフスキー全著作を何度も読み、ゴーリキーからショーロホフに至るまでの文学に触れ、ようやくその呪縛から脱皮することが出来たのだった。
いわば社会に出て今日に至るまで、それがある意味で指針ともなったのである。
老人仲間を見渡すと、死を待ちながら、ポジティブに生きるか、ネガティブに生きるかの差が、”トル”と”ドス”の違いのように、私には思えてならない。
家族や友人に囲まれながら、静かに息を引き取る。然るべき葬儀のあと、名を刻した墓に眠る。一方、そうした最期を望まない老人もいる。この違いは読書によるもののように思えるのだ。
電車や喫茶店で読書をしている人は、この頃稀(まれ)である。たいていスマホをやっている。ゲームなのか、ツイッターなのか知らないが、スマホ愛好者だらけである。
若い人はむろんのこと、中年も老人もやっている。どうなっちゃているんだと思うほど、スマホ全盛には呆然とする。
アメリカの大統領はSNSで、全世界にメッセージを流している。思いついたことをすぐに発表し、世界中が一喜一憂しているのだから、めちゃくちゃである。おそらくトランプさんは、本など読まない、スマホでご多忙な日常を送っているのだろう。
私の学生時代は、どこでもいつでも、誰でも本を読んでいた。テレビも電信もなかったから、読書しなくては、人生から脱落すると信じて疑わなかった。
そこで「トルとドス」である。
読書は生きる活力になる
トルストイの代表作は『アンナ・カレーニナ』『戦争と平和』『復活』の3つの長編小説である。なかなかのストーリーテラーで、娯楽性にも富んでいる。
一方、ドストエフスキーは、極めて難解だが、登場人物の個性が生き生きとと描かれていて、人間の深層に迫る。5大作とされるのは、『罪と罰』『白痴』『未成年』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』で、短篇にも『賭博者』などの傑作が少なくない。
トルストイは貴族の出身で、神を信じる敬虔なキリスト教徒として育てられた。作家活動も穏健だったが、晩年、反動的だという理由で教会から破門された。そして、82才で家出し、雪中で自殺してしまったと、私は記憶している。(異説では、80才で家出し、82才のとき、鉄道で移動中に肺炎で死亡したともされている)
ドストエフスキーは、私が知る限りでは、無神論者で、大酒呑みでギャンブラーだった。医師の息子で中流階級だったのだが、体制批判によって、逮捕や流刑を体験している。60才で行方不明になり、不慮の死を遂げた。(ドストエフスキーにも異説があって、『カラマーゾフの兄弟』を書き上げ、家族に看取られ肺気腫による肺動脈瘤破裂により59才で死去したとも言われる、ま、どっちでもいい)
余計なお世話にだと言われるかも知れないが、トルストイでも、ドストエフスキーでも、読んだことのない老若男女に、一冊でもいいから、是非読んで欲しい。
幸いにも、二人の本は、現在も文庫になって、どこの書店にも置かれている。
私は、80を過ぎてから、ドストエフスキーを再読し、日本の明治文豪たちの本を繰り返し読んでいる。間違いなく、生きる活力になっているし、まったく惚ける心配がない。
むろん、肉体の衰えはどんどん進行中である。日常的に不具合が起き、いよいよ駄目かと思う時もある。それでも負け惜しみではなく、死に近づくのが嬉しいと思っている。ボロボロになる前に死を迎えたい。
その支えになっているのは、やはり読書のように思う。
どうか、老人同志よ、読書をお試しあれ。少しも難しいことではありません。
矢崎泰久(やざきやすひさ)
1933年、東京生まれ。フリージャーナリスト。新聞記者を経て『話の特集』を創刊。30年にわたり編集長を務める。テレビ、ラジオの世界でもプロデューサーとしても活躍。永六輔氏、中山千夏らと開講した「学校ごっこ」も話題に。現在も『週刊金曜日』などで雑誌に連載をもつ傍ら、「ジャーナリズムの歴史を考える」をテーマにした「泰久塾」を開き、若手編集者などに教えている。著書に『永六輔の伝言 僕が愛した「芸と反骨」 』『「話の特集」と仲間たち』『口きかん―わが心の菊池寛』『句々快々―「話の特集句会」交遊録』『人生は喜劇だ』『あの人がいた』など。
撮影:小山茜(こやまあかね)
写真家。国内外で幅広く活躍。海外では、『芸術創造賞』『造形芸術文化賞』(いずれもモナコ文化庁授与)など多数の賞を受賞。「常識にとらわれないやり方」をモットーに多岐にわたる撮影活動を行っている。