85才、一人暮らし。ああ、快適なり【第18回 ラブレター】
才能溢れる文化人、著名人を次々と起用し、ジャーナリズム界に旋風を巻き起こした雑誌『話の特集』。この雑誌の編集長を、創刊から30年にわたり務めた矢崎泰久氏は、雑誌のみならず、映画、テレビ、ラジオのプロデューサーとしても手腕を発揮、世に問題を提起し続ける伝説の人でもある。
齢、85。歳を重ねてなお、そのスピリッツは健在で執筆、講演など精力的に活動し続けている。自ら望んで始めた一人で暮らす、そのライフスタイル、人生観などを矢崎氏に寄稿していただき、シリーズ連載でお伝えする。
今回のテーマは、「ラブレター」。数十年前に書いたラブレターを持って、矢崎氏の前に突如現れた女性。さて、そのワケとは…
悠々自適独居生活の極意ここにあり。
* * *
40数年前の恋人から突然連絡があった
最近の若い人は、あまり手紙を書かないらしい。メールの方が手っ取り早いのだろう。
私の通信手段は、短い要件はハガキ、長いのは手紙と、今もあまり変わらない。
つい10年くらい前までは、ラブレターをせっせと書いていた。女性を口説くには、まず手紙を書き、届いたであろう数日後にお目にかかる。これが効果的だと信じて疑わなかった。ま、単純そのものだ。
ところがである。40数年前の恋人から、私のガラケー(携帯電話)に突然Eメールが入って、
「お返ししたいものがあるので会いたい」と、伝えてきた。
驚いて、「お目にかかるのはいいですが、何かお預けしていましたか」と、返信。
「ラブレターです」と、再度メールがあって、危うく椅子から転げ落ちそうになった。
名前を聞いても、暫くは思い出せなかったが、あまりにも間隔があき過ぎている。いろいろな疑念が瞬時に浮かんだが、次第に怖ろしくなってきた。
郵送して下さいと頼むのも失礼だし、返して欲しいと少しも思っていない。実に厄介な話が舞い込んだのだと、気味が悪くなる。
先方の理由は、ひたすら「返したい」であった。
で、数日して会った。私もそれほど暇ではないので、仕事場の近くまで来て貰った。
約束した場所(喫茶店)で落ち合ったのだが、私には見覚えのない老女だった。名前には覚えがあったのだが、顔と名前が全く一致しない。困った。恐らく怪訝(けげん)そうにしている私に気付いたのだろう、
「わたくしをお忘れですのね」と、おっしゃる。
「すみません、年を取り過ぎて…」と私。
「ですから、お返しした方が良いと決心したのです。」
つまり、間もなく矢崎クンは死ぬであろうから、ラブレターを返しておこうというわけか。
40年前となると、私は45歳。若気の至りなんて弁解が通用しない中年男(ミドル・エイジ)だ。それが、何と3通もあった。ジワーッと汗が出てきた。
「どうぞお読み下さい」と、運ばれて来たコーヒーを啜(すす)りながら老女は言う。
表書きは私の筆跡に間違いないが、読まなくてもわかる気がするし、読む気もしない。
「あなたに差し上げたものですから、破るなり捨てるなり、ご自由にして下さい」と、言う。
すると老女は涙を流し始めた。私はすっかり狼狽(うろたえ)て、
「記憶が衰えてしまって、ごめんなさい。どうしても、思い出せないのです」と、懸命に詫びた。
「わたくしは大切にしていたのに…」