シニア特急~初老の歴史家、ウェールズを征く~<30>【連載 エッセイ】
長年、イギリス史を研究してきた、歴史家でエッセイストの桜井俊彰氏は、60代半ばにして、自身にとって「行かなければいけない場所」であったウェールズへの旅に出かけます。
桜井さんのウェールズ旅の軌跡を、歴史の解説とともに綴った、新しいカタチの「歴史エッセイ」で若いときには気づかない発見や感動を…。
シニア世代だからこそ得られる喜びと教養を堪能してください。
さあ、『シニア特急』の旅をご一緒しましょう!
【前回までのあらすじ】
ウェールズの大聖堂「セント・デイヴィッズ」にゆかりの深い『ジェラルド・オブ・ウェールズ』の本を日本人向けに出版した桜井氏は、「セント・デイヴィッズ」を訪れ、その著作を寄贈することを夢見ていた。
そして、ついに念願が叶い、ウェールズへの旅へ出発する。
飛行機、列車、バスを乗り継ぎ、無事に目的地である大聖堂「セント・デイヴィッズ」のある街、セント・デイヴィッズに到着した。
宿はB&Bの「Ty Helyg(ティー・へリグ)」。早速、訪れた大聖堂は土地の谷底にそびえ建っていた。神聖なる聖堂の中へ入り、ついにジェラルド・オブ・ウェールズの石棺に出合う!また、思いがけず、テューダー朝の始祖である国王ヘンリー7世の父、エドモンド・テューダーの石棺にも巡り合う。
ジェラルドについて記した自著を大聖堂「セント・デイヴィッズ」へ献上したいという思いを果たし、そしてまた、バスを乗り継ぎ、次の目的地、ペンブロークに向かう。
予約していた宿「Old Kings Arms Hotel」は、まるで絵本に出てくるような外観。荷をほどき、早速、ペンブローク城に向かう。城内巡りを堪能した後、夕食をとるためにホテル内のレストランの席についたところ、日本の俳優、笹野高史似のホテル支配人から、彼の友人が書いた日本海軍についてのレポート内容について、質問を受け、日本は、東郷平八郎をスパイにして、イギリスの船艦建造技術を盗んだのではないかという説を聞かされた。
スパイ説が、間違いであること、レポートには多くの誤解も含まれていることを理解してもらったが、英国人が日本人に対して抱いている感情の一部を目の当たりにし、ウェールズも英国の一部であるのだという認識を新たにしたのだった。
夕食を終え、早めに床につく…
* * *
IX だから、私は電車で眠らない、眠れない(1)
(2017/4/12 ペンブローク→ハーバーフォードウェスト→カーディフ)
●電車で眠らない人たち
また午前3時に目が覚めてしまった。もう、これ以上は絶対に眠れない目覚めであるのはわかった。ずっと時差の影響が続いている。
でも、昨夜倒れこむようにして寝たのが確か21時ごろだから、6時間は寝たことになる。よしとするか。
ただやっぱり、健康管理で普段から診てもらっている病院の先生から、海外に行くとわけを話して睡眠導入剤のようなものを処方してもらえばよかったと後悔している。以前は、こうまでも時差に敏感なことはなかった。だいたい、自分では時差には強いほうだと自慢していたくらいだ。
よく、日本から出発して時差がこたえるのは朝に着くことが多いアメリカ便といわれ、夕方に到着する便が主流の欧州便はホテルについてそのまま寝てしまえばいいから比較的楽だとされている。
これはその通りで、アメリカの場合はもう頑張って起きているしかなく、それでも以前の私は大して苦にならなかったし、もちろんヨーロッパは着くとすぐ眠れたので時差にやられたと感じたことはかった。
一言でいえば若かったのである。そんな記憶だけは健在だったので、ウェールズに着いてもすぐに眠れると思い込んでいた私は、初日に泊まったカーディフのマリオットホテルで目がさえまくり、そこから睡眠の調子が狂ってしまった。仕方がないのである。
こういうとき、夜に眠れないなら移動時の電車やバスで眠ればいいじゃないか、と思われる向きもあろう。
ここが大変なのだ。イギリスでは、電車やバスでは眠れないのである。
正確にいうと、電車やバスの中で私は眠っている人を見たことがないのである。これは本当である。
既述の通り、1996年から1997年までの2年間、私たち一家はロンドンで暮らしていて、その間地下鉄やバス、鉄道は散々乗った。
だが、車内で隣の人の肩に頭を乗せてコックリコックリしているような人はついぞ見たことはなかった。あの電車の揺れほど睡眠不足の身に心地よいものはなく、かつて私などはつり革につかまりながら寝てしまったことさえあった。他の欧州諸国やアメリカのことはわからない。
しかし少なくともイギリスでは、車内で人は眠らない。
これは一昨日、カーディフからハーバーフォードドウェストまで乗った鉄道でも再確認した。グループで来ている人たちは談笑し、ひとりで乗っている人は本を読んでいるかスマホをいじっているか、窓の外をじっと眺めている。
しかし誰も眠らない。
●だから私も眠れない
その理由を考えてみたことがある。
イギリスは比較的治安がいい国だ。ロンドンでは女性が夜独り歩きをしても基本的に安全だし、そんなに窃盗とか暴力が多発している風でもない。
けれども日本と比べれば数段危ないことは確かで、人々はひとりでマクドナルドに入っても、自分の席を確保するためバッグを置いてから注文に行くなんていうことはひっくり返ってもしないし、ジーンズの後ろポケットに突っ込んだ財布が半分以上見えている状態で平気で町を闊歩(かっぽ)している若者もいない。
人々はおおらかで優しいが、ぬかりない。
電車の中で眠ってしまったら、自分のカバンが降りる駅まで一緒についてくる保証はないということを知っている。
恐らく、眠らない理由はその辺にあるのだろう。まあ、本当のことはわからないが。ただ、何時間も乗る電車内では、人々はたぶん眠るのだろうとは思う。そうしないととても体が持たない。私が乗ったのはロンドンの地下鉄とか、せいぜいがカーディフ→ハーバーフォードウェスト間の2時間20分程度なので、別段眠らなくても問題はない。
とにかく人々は電車内で眠らない。よって、私ひとりだけ、日本人を丸出しにして本当は寝てしまってもいいのだろうが、誰も眠っていない周囲で相当目立つだろうし、ましていびきでもかいたら、やっぱり東洋人はこうよねえ、中国人かしら?うん、大好きなダウンパーカー着てるし、と間違われるのも癪だ。
ちなみに、私はネイビーブルーのダウンパーカーを着てこのウェールズを動き回っているが、それは『MUJI』のライトダウンで、デザインもそんなに悪くないやつだ。と、そういう次第で、私は電車やバスの中では眠たくても眠らない、眠れないのである。
桜井俊彰(さくらいとしあき)
1952年生まれ。東京都出身。歴史家、エッセイスト。1975年、國學院大學文学部史学科卒業。広告会社でコピーライターとして雑誌、新聞、CM等の広告制作に長く携わり、その後フリーとして独立。不惑を間近に、英国史の勉学を深めたいという気持ちを抑えがたく、猛烈に英語の勉強を開始。家族を連れて、長州の伊藤博文や井上馨、また夏目漱石らが留学した日本の近代と所縁の深い英国ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の史学科大学院中世学専攻修士課程(M.A.in Medieval Studies)に入学。1997年、同課程を修了。新著は『物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説 』(集英社新書)。他の主なる著書に『消えたイングランド王国 』『イングランド王国と闘った男―ジェラルド・オブ・ウェールズの時代 』『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 』『英語は40歳を過ぎてから―インターネット時代対応』『僕のロンドン―家族みんなで英国留学 奮闘篇』などがある。著者のプロフィール写真の撮影は、著者夫人で料理研究家の桜井昌代さん。