まさか最後の初詣になるとは…母を見送ったコラムニストが一つだけ「すればよかった」と悔やんでいること|「147日目に死んだ母――がん告知から自宅で看取るまでの幸せな日々」vol.6
末期がんと診断され、積極的な治療をせず自宅で過ごすと決めた母を最期のときまで見守り続けた家族の記録をコラムニストの石原壮一郎さんが綴る。今年のお正月、家族で行った初詣が、まさか最後になるとは…と寂しさをにじませる石原さんは、「そのときにできることはやった」と思いながらも、「もっとできたことがあったのかもしれない」と振り返る。
執筆/石原壮一郎
1963(昭和38)年三重県生まれ。コラムニスト。1993年『大人養成講座』(扶桑社)がデビュー作にしてベストセラーに。以来、「大人」をキーワードに理想のコミュニケーションのあり方を追求し続けている。『大人力検定』(文藝春秋)、『父親力検定』(岩崎書店)、『夫婦力検定』(実業之日本社)、『失礼な一言』(新潮新書)、『昭和人間のトリセツ』(日経プレミアシリーズ)、『大人のための“名言ケア”』(創元社)など著書は100冊以上。故郷を応援する「伊勢うどん大使」「松阪市ブランド大使」も務める。
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穏やかに明けた2025年お正月だった
「この正月はあちこちに初詣に行ったで、母ちゃんも僕らも、よっけええことがあるに」
「ほんまやな」
三重の山奥にある人気の神社をはしごしながら、母と妻とそんな話をして笑い合ったのは2025年が明けてすぐのことである。元日には孫やひ孫も一緒に、近所の氏神さんにお参りした。いつもと変わらない穏やかなお正月である。まだまだ何度も、こんなお正月を母と過ごせると思っていた。
しかし、それから約1か月後、母はお腹の激しい痛みに襲われる。隣りの市に住む弟夫婦が夜間の緊急外来に連れて行き、そのまま入院。末期の大腸がんだった。もしかしたらお正月の頃も、自分の体が「いつもとは違う」と感じていたかもしれない。
2月下旬に退院した母は、積極的な治療はせず、自宅でこれまでどおり生活することを選んだ。3月には大好きなツクシ採りにも行けた。何度か満開の桜も楽しんだ。小学生の頃からの親友に会うために、車椅子に乗りつつ東京に行くこともできた。まだまだやりたいことがあったに違いない。もっともっと生きるつもりだったに違いない。
しかし、病気は本人や周囲の期待よりもずっと早いスピードで、母のからだを蝕んでいった。常々、自分のことを「元気だけが取り柄」と言っていた母にとって、思ったように動けない、動く気力が起きない状態は、さぞ悔しかったことだろう。
4月末、溜まった腹水を抜く「腹水穿刺」を初めてやってもらうことになった。数日前から、服を着ていてもわかるぐらいお腹が膨らんできていた。元気も食欲もない。腹水を抜く前夜は、夜中に真っ黒な胃液を洗面器に何度も吐いたようだ。
主治医の先生が「石原さん、苦しかったですね」と言葉をかけながら、お腹に太い注射針を刺し、針につながったチューブに大きな注射器を付けて、少し黄色がかった腹水を抜いてペットボトルにうつしていく。何度も何度も繰り返し、1時間ほどかけて4リットル以上の腹水を抜いてくれた。
ひと段落ついて楽になった母は「おおきんな。ほんまに苦してなあ。先生が来てくれたときは、神様に見えたわ」と、主治医に最大級の感謝を伝えていた。リップサービスではなく、きっと本心である。若い主治医の先生は「そんな大げさな」と照れていた。
病気の悪化が原因で溜まり始めた腹水は、抜いてもまたすぐに溜まってきてしまう。その後も母は、4度にわたって腹水を抜いてもらった。そのたびに目に見えて体力が落ち、抜いてもらう間隔も縮まっていく。初めて抜いてもらってから2週間ほどは、食欲も出て、お見舞いに来てくれた友人たちとも元気に話すことができた。
食事に関して「あれでよかったのかな…」と思う
介護用の電動ベッドを使い始めたのは、初めて腹水を抜いてもらった直後である。それまでは自分で押し入れから布団を出して敷き、朝も自分で畳んで押し入れに入れていた。もしかしたら、状態が悪くなってからはけっこうな重労働だったかもしれない。ただ、まだ自分でやれているのに、「やろうか」と横取りするのはためらわれた。
どうしたものかと迷っているより、さっさと敷いてしまったほうが楽である。しかし、そんな調子でどんどん「仕事」を奪ってしまったら、ずっと自分のことは自分でしてきた母としては、きっと寂しいに違いない。
食事に関しては、振り返って「あれでよかったんだろうか」と思うこともある。体力が落ちた5月以降に比べたら、まだ十分に動けた3月、4月頃から、もっぱら私や妻が食事の準備をしていた。
料理が好きだった母は寂しい思いをしていたかもしれない。味付けにせよ作り方にせよ、物足りなさを感じることもあっただろう。しかし母は、いつも「作ってもらえて嬉しいわ」と言ってくれていた。その言葉に甘えつつ、自分の中に「病気の母に食事を作ってあげる」ということへの一種の満足感があったかもしれない。
退院後は、病院がくれた「大腸手術後の食品の選択」という一覧表を冷蔵庫に貼り、私がネット書店で買った『大腸を切った人のための毎日おいしいレシピ200』という本をめくりながらメニューを決めていた。「切った人」ではないが、似たようなものだ。
よく食べていたのは、焼いたはんぺん(地元では「はんぺい」)やちりめんじゃこを載せた大根おろし、魚の煮付け、卵焼き……などなど。やわらかくて消化がいい伊勢うどんも好きだった。「伊勢うどん大使」を務めている息子としては、嬉しい限りである。
ご飯はやわらかめに炊いて、さらに茶碗によそってから少し水を足し、レンジで30秒ほど加熱したものを食べていた。炊き立てのときなど「そのままで食べるわ」と言うことも多かった。なるべく「いつものご飯」を味わいたかったのだろう。
病気をする前のように、体力の許す範囲でなるべく自分で台所に立って、息子夫婦や孫たちに手料理を振る舞う楽しさを味わってもらったほうがよかったかもしれない。こちらとしても、狭いレパートリーの範囲で作るだけでなく、本を参考に新しいメニューをもっとたくさん作ってみることもできたかもしれない。
「どうしてそうしなかったのか」と後悔していること
振り返ると、食事のことだけではなく、「もっと違うやり方があったかもしれない」と思うことはある。ただ、後悔というのとはちょっと違う。介護にせよ何にせよ、そもそも人生のどんな場面も「そのときにできること」をできる範囲でやるしかない。できなかったことを数えて申し訳なさを覚えるのは、世話をされることを喜んでくれた母に失礼だし、幸せだった貴重な日々を冒涜することになる……気がする。
うっかり大げさな言い方をしてしまったが、関連の情報を目にするたびに「どうしてそうしなかったかなあ」と自分を責めたくなることもある。それは、映画『侍タイムスリッパー』をパソコンを使って観せてあげなかったことだ。
母は時代劇が大好きだった。お昼ごはんを食べたあとは、ローカル局で放送されていた時代劇の再放送を見るのが楽しみだった。とくに熱心に見ていたのが、藤田まこと主演の『剣客商売』である。
2003~2004年に放送された第4シリーズと第5シリーズでは、『侍タイムスリッパー』で主演を務めた山口馬木也が、藤田まことの息子役だった。山口は当時、デビューして5年目。青年剣士の「秋山大治郎」を初々しさたっぷりに演じていた。
「この大治郎さん、最近の映画に主役で出とって、その映画がえらい人気なんやに」
そう話すと、「ほうか。しばらく見やんだけど、がんばらんしたんやな」と感慨深そうに言っていた。「侍~」のネット配信がスタートしたのは、そんなやりとりをした3月下旬である。一緒に観るタイミングは何度もあったが、連休明けまでは母の投稿集『アッコちゃん』の編集作業を焦りながら進めていて、自分の側に気持ちの余裕がなかった。
編集作業がひと段落ついた頃は母の体力が落ちていて、2時間以上の映画を観せるのは、ちょっと酷な気がした。観ていたら、中年になった「大治郎」の晴れ姿に、どんな感想を抱いただろう。映画の内容も含めて、きっと楽しんでくれたに違いない。
今もネットなどで、ふとした拍子に『侍タイムスリッパー』という文字を目にすると、テレビで時代劇に見入っていた母の姿を思い出す。もし春にタイムスリップできたら、今度こそは一緒に観たいものだ。そうはいかないのが何とももどかしい。
つづく。
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