【連載エッセイ】介護という旅の途中に「第8回 永代供養」
写真でハーバリストの飯田裕子さんは、父を在宅で介護し、見送った。一人暮らしをする母を支えながら、海外での撮影活動など、以前の生活に戻ったものの、母の体調にも異変が起こり…。
まだまだ介護に奮闘中の飯田さんが、リアルタイムで体験を綴る連載エッセイ。今回のテーマは、父の供養についてだ。
* * *
房総半島の東南に千倉(ちくら)という小さな町がある。
海の青さが格別で、その海から、朝日も月も日々昇る。その海を望む高台に、『能蔵院』という小さなお寺の永代供養堂に父の遺骨は眠っている。
遺書も残さず、どんな葬られ方を望んでいるかも家族に伝えなかった父だった。
数年前のことだが母と父とでこんな問答があったという。
「うちは本家じゃないし、お墓がないからどうするの?」と母。
すると父は、顔面を引きつらせながら「人を殺す気か?」とすかさず言い返し、夫婦喧嘩になった。
医師だった父は、“生命に限りがある”という事実を客観的に一番知っているはずなのに、この子供じみた反応を母から聞き、私は唖然としたことを思い出す。
それ以来、我が家ではお墓の話はタブーとなったのだった。
父の遺骨
昨年12月に父が他界し、その遺骨の落ち着き先は決まっていなかった。
母、私と弟の気持ちの足並みが揃うまで骨壷を家に置いておくことは違法ではないし、実際にそうされている方も知人にいる。
しかし、無言のお骨の存在は、正直なところ、ある意味厄介なものだった。特に長く留守にしなければならないときは、お骨をそのまま家に置いて施錠するわけで、それは、あまり気分のいいものではなかった。
そこで、遺された家族で、お墓に関する相談をした。
「パパはおばあちゃんを見送って葬儀も出したけど、お墓参りをしたこともなかったよね、確か…」
「仏壇に線香を供えてる姿も見たことないしね」
父は現実派人間だったので、クールすぎるくらいクール。お盆のお参りの話題すらしない人だった。
我が家は昭和の核家族で、両親は、古くからの慣習を無視することをある意味カッコいいとさえ思っていた。
でも父は、最期の時期に、ふと「昔ながら、祖先に習って仏様になるのがいいな」と漏らしたことがあった。
庭で花を育てるのが趣味だったこともあり樹木葬が似つかわしいのでは?という話も出た。弟に至っては「僕は死後の世界を信じてないし、お墓もいらない。どこか綺麗な海に骨をまいてくれればいいよ」と言う。
そんな話をしていたら、沖縄の旅から戻ってきた友人が「沖縄のユタ(霊能者)がね、本土の人が海に散骨に来て、その霊が、“早く土に埋めてくれ~”って困ってるって話してました~笑」と冗談交じりに言っていたことを思い出した。
死後の世界は科学的に明らかにできない。だからこそ、人の心に生じる不安や怖れを宗教が一手に引き受けてきたのだろう。こうしておけば安心というひな型を作り、心の整理代としてお布施を払い、お墓を建て敬う。
しかし、獣や虫、植物までも地球上の生きとし生きるものは皆、最後は体を置き土産にしてエネルギーを消滅させる。そう考えると、この世の土は皆なんらかの屍でできているということだ。海でもどこでも、どちらにせよ地球の一部に帰する。
しかし、そう冷静に分析したところで、肉親を失った悲しみの気持ちだけは何処にも持って行きようがない。
やはり祈りたいし、話しかけたい。だから、お墓や仏壇や、何かしらの対象が必要なのだ。
友人僧侶が教えてくれたお寺
そういったことで悩んでいる頃、葬儀を執り行ってくれた友人の芳蓮僧侶が、お経を上げにきてくれた。
そして、彼女が出家するきっかけとなった能蔵院で本堂を改築する際「八葉心」という永代供養堂も付帯させたという話を聞いた。毎日本堂でお経もあげてくださると言う。
早速、母と連れ立ってお寺を訪ねると、お骨を安置するロッカーと、静かでアーティステックな空間にクリスタルの位牌がLEDのライトに浮かび、祈りを捧げられる工夫がされていた。現代式の供養にはほぼ陰りがなく、透明感すらある。
その空間から一歩外に出ると心地よい潮風が頰を撫でた。
「いいわね…。ここなら安心だわ。」と母。この母の一言で永代供養の申し込みをすることになった。母もここに入ると言う。
「裏山に登ると海が一望できます。すると遠くに勝浦の灯台も見えるんですよ。ご縁ですね」と住職がおっしゃった。
目に見えない縁の糸で勝浦と能蔵院が結ばれているように感じ、母も私も一層安心した。
父の戒名
千倉から勝浦までの道のりは海岸線をひた走り、1時間半。決して近いとは言えない距離かもしれないが、海を眺めながらの道のりは気持ちが晴れる。
お寺に納めるとなると戒名がいる。
その人となり、職業なども踏まえ、法蓮和尚がつけてくれたのは「藍岳聴宏居士」(らんがくちょうこうこじ)。
父が生まれた新潟の家は、代々紺屋だったことに因み「藍」と、医学の「蘭学」という音をアレンジした粋なものだった。
僧侶は「お母様は縫い物がお好きなんですね。それに因んだ戒名をいずれは考えます。でも、今はご自分の人生をまだまだ楽しんでください」とおっしゃった。
母はその言葉に笑顔でうなずいていた。
思えばその頃は物忘れはしても、認知症を疑ったことはなかった。
能蔵院は花の寺とも呼ばれ、もうすぐ蓮池に睡蓮が満開になる。
(つづく)
写真・文/飯田裕子(いいだ・ゆうこ)
写真家・ハーバリスト。1960年東京生まれ、船橋育ち。現在は南房総を拠点に複数の地で暮らす。雑誌の取材などで、全国、世界各地を撮影して巡る。写真展「楽園創生」(京都ロンドクレアント)、「Bula Fiji」(フジフイルムフォトサロン)などを開催。近年は撮影と並行し、ハーバリストとしても活動中。Gardenstudio.jp(https://www.facebook.com/gardenstudiojp/?pnref=lhc)代表。