【連載エッセイ】介護という旅の途中に「第29回 母の誕生日」
写真家でハーバリストとしても活躍する飯田裕子さんによるフォトエッセイ。父亡き後に認知症を発症した母と千葉・勝浦で暮らす飯田さんが、日々の様子を美しい写真とともに綴ります。
ウクライナの戦禍を目の当たりにして
3月4日、母は今年で92歳を迎えた。
テレビをつければウクライナでの戦争が報じられている最中だった。ロシア軍のウクライナへの進行が続く。起きてはいけないことが起きてしまい、今も出口が見つからないままに市民の命が犠牲になっている。
「ああ、またこの歳になって戦争なんて嫌だね!私が女学校だった時分は毎日、出征兵を旗を振って送り出していたけど、あれほど嫌なことはなかったねえ…」と母。
母の一家は長く女系家族だったこともあり、身内で戦死の報せを受けることは幸運にもなかったというが、
「あの頃は戦争未亡人がたくさんいて、女手一つで残された家族を養うことは大変だったと思ったわよ。私はまだ少女だったから何もわからなかったけど。でもね、戦争はもう懲り懲りだわ。いいことなんて何も無い。」
報道がテレビで流れるたび、母はそう繰り返した。こんな事態となって、人命の喪失がもちろんだが、ようやく目を向けられかけたプラスチックの海洋汚染や地球環境への配慮すらこの戦争に飲み込まれてしまうようでさらに哀しくなる。
しかし、母においては、テレビの報道に反応しても、その5分後には全てケロッと忘れてしまう。ある意味、幸せかもしれない。が、母と自分との間の気持ちのギャップに、つい苛立ってしまったりする。
春がやってきた
母を外に連れ出すと勝浦の海は青く、河津桜が春らしいピンク色を綻ばせ、春一番のご馳走に花から花に蜜を求めて飛び交うメジロは春の大宴会。
「あら、この桜の花は色が濃いね」
母の頭の中には、今ここの感情で占められていて、それはそれで幸せなことかもしれない。
母のあっけらかんとした顔で「私は長生きの血筋だから困っちゃうのよ」と、いつものセリフも出る。
この頃はショートステイも慣れていきた。時に寒暖の差が激しい季節の変わり目は、自宅にいるよりも快適なようだ。
「いつ、わたし戻るの?」と母。
戻る、とは施設への意味だ。
「あそこでは部屋の温度もいつも暖かで、言われる通りにしてればいいから楽よ。」
そう言うようになってきたのだ。
母はこの1年でエアコンの操作ができなくなり、気温の調整を、服を重ねてする方法も自分では難しくなってきた。頼みの綱は、昔から使っていた旧式電気ストーブ。このスイッチだけはなんとかつけられる。
しかし、問題は、若い頃から身に付いた節電意識が勝り、コンセントを引き抜いてしまうのだ。そして、抜いたコンセントを入れると電気が通じることが理解出来ないので、つぎに寒くなると、結局ストーブがつけられなくなる。
ある日は、頼みのアレクサにアクセスしようと、外出先からアプリを起動すると「オフライン」と表示、帰宅してみると、電源ごと抜いてあった。
私は「このアレクサが命綱なんだからね」と電源をメンディングテープで頑丈にとめて、安易には抜けないようにした。さらに「電源抜くな!」と大きく書いて貼っておいたのだが、それでも母は、勝手に手が動く。
「え?私、何もやっていないわよ」
と憶えていない母。
認知症だった姑の世話をしていた母
認知症になると、人の癖や、習慣で過去にまめにやっていたことはでき、新しいやり方への順応ができないというが、本当のようだ。さらに、頭の中の思考方法、ロジックも組み立て方の癖があり、かつて自分が一番キラキラしていた頃の感情と、逆に辛かった当時の感情が強調されて心に浮かぶという。
そう聞いて、理解はしても、実際に自分の母の症状がそうなってくると、日々、1対1でのコミュニケーションはかなり辛いストレスとなる。
「私は認知症の姑でさんざん懲りたから、自分はボケたくない!子供には迷惑かけたくない!」
私が中学3年の頃、母は当時、日々認知症の姑に苛つき、かといってそれを発散させる時間もなく、悶々とした辛い時期だった。私にとって、そんな祖母はかわいそうに映ったのだが、今となってはあり得る話と納得する。
当時、我が家は大きなガス爆発が起こった後で、私は高校受験を控えていた。仮住まいになり、母は、父の見舞いに病院通いの日々だった。
そんな家庭事情を察してくれた教師から母へ勧めがあり、私はとある私立学校に1年早い編入試験を受け、中学3年で高校までの一貫学校へ転校したのだった。当時の私は、地域の公立中学で、大学進学も視野に入れ、勉強に励んでもいたので試験にはなんとか合格した。落ち着かない家での受験勉強をしなくて済むことにはなり安堵したのを覚えている。
とはいえ、公立中学校とは違い、新しい学校は私立。そこでは生徒のタイプも違い、東京から通っている人も多かった。進学校ではあったが、地味な公立校から一気に華やかでキラキラした世界へと、転じた感じだった。そこでできた友人仲間の兄がバンドをやっていたこともあり、音楽好きの仲間と出会い、ついに女子ロックグループまで結成し、楽しい高校生活を謳歌していた。
しかし、家の中は、まさに火宅状態だった。認知症の姑の徘徊や言動に苛つく母。父は、火傷から復活したらすぐに、日々、医院の仕事に勤しんだ。
「男は外で仕事、女は姑の世話をしながら家事」
そんな構図が当たり前の時代だったので、母への荷重が一気にかかった時期だったのだろう。今のような介護施設も、介護保険もない時代。
母は毎日「私はなんて運が悪いんだろう。だって、姑仕えだけはしたくないからパパみたいな末っ子と結婚したのに…、こんなことになるなんて…。逃げても逃げても宿命は避けられないのかしら」と、嘆いていた。
実は、祖母の世話は、認知症の行動に忍耐しかねた父の兄一家から、次々と他の兄弟の家を巡り、最後に末っ子の父に、当番が回ってきたのだった。
母の愚痴は、ケアマネもいない当時、家庭内だけで吐露されるため、私や弟は、結婚という現実の厳しさを目の当たりにした思春期であった。夢をうち砕かれたような心境になったことを思い出す。
最近の母は、ネガティブな心境に陥ると「あの当時が一番辛かったよ。おばあちゃんの世話に明け暮れながら。そんな時にあなたはお友達とさんざん遊んで!弟のKは近所の中学生で地味にしていたのに。あなたには本当に苦労させられたわ!」と、言う。
母の虫の居どころが悪く、私を責めるときに、もう数十年来、必ず出てくるフレーズである。
「ねえ、そんな娘は今幾つだと思っているの?もう還暦も過ぎたのよ。あれから社会にも出て仕事もしてきたのがあなたの娘よ。父も看取ったでしょう?」
いくらそう説得したとて、それはほぼ耳から脳に浸透することはない。認知症では、人生で一番インパクトのある記憶、すなわち、自分の素晴らしき時代と最悪の時代が、固く紐づいた思い出となって、出たり入ったりして、まるでエンドレスの映画のようだ。
得も知れぬ無力感とは、私のこういう気持ちの事かもしれない。
私は、もう1人の自分でもあるハーバリストの指示に従い、気分が落ちこんだ時に効果を発するハーブ、セントジョンズワートのサプリメントをネットでポチリと注文した。
写真・文/飯田裕子(いいだ・ゆうこ)
写真家・ハーバリスト。1960年東京生まれ、船橋育ち。現在は南房総を拠点に複数の地で暮らす。雑誌の取材などで、全国、世界各地を撮影して巡る。写真展「楽園創生」(京都ロンドクレアント)、「Bula Fiji」(フジフイルムフォトサロン)などを開催。近年は撮影と並行し、ハーバリストとしても活動中。HP:https://yukoiida.com/