松山千春、「息子の顔を忘れても歌は忘れなかった」母との果たせなかった約束
母の苦労の上に自らの生活があったことを千春は理解していた。そして、音楽の才能を開花させた千春は母への恩返しを果たす。ミヨさんは、もともと歌と踊りが大好きな人だった。
「ミヨさんは、流行歌に合わせて踊る新舞踊の名取で、若い頃は旅回りの一座に属していました」(前出・富澤氏)
1986年、すっかりスターになった30才の千春は、北海道出身の力士・保志(現・八角理事長)の優勝を祝う会のステージ上にいた。会場には何百人と集まっている。
「千春さんは数ある自身のヒット曲ではなく、村田英雄さんらが歌い継いできた『人生劇場』を歌っていたのを覚えています。傍らには、男装をして踊るミヨさんの姿があったんです。『自分の歌しか歌わない』ってとんがっていた千春さんが、ミヨさんが知っている流行歌を熱唱し、還暦を過ぎた小柄な体をミヨさんがうれしそうに動かす。いまでも記憶に残っています」(前出・足寄町民)
千春がミヨさんをステージ上にあげたのは、このときが初めてではなかった。
「千春さんが足寄町で凱旋コンサートを初めてやったときに、お母さんがステージで踊ったんです。そのときのお母さんが本当にうれしそうで、親孝行ができたなって思ったって、ご本人が話していました。それまでずっと土木作業で苦労してきたからね。自分たちを育ててくれたことに千春さんはすごく感謝していてね。お母さんにはたくさん楽しい思いをしてほしいと話していました」(芸能関係者)
が、いつの頃からかミヨさんの姿はステージ上で見られなくなる。
「15年ほど前に認知症であることがわかり、千春さんの義兄さんと甥っ子さんが一緒に暮らして面倒を見ていたんです。それでも3年前に大腿骨を骨折して入院したことで、症状がぐっと進行してしまいました」(前出・芸能関係者)
『母さんの100才の誕生日には盛大なパーティーをするから』
千春もラジオで時折語ることだが、ミヨさんはここ数年、千春の顔を息子と認識できなくなっていた。それでも、ミヨさんは、変わらず千春の母であり続けた。
「お見舞いに来た千春さんのことは誰だかわからないんですが、自分の息子が千春という名前の有名なフォークシンガーだということはわかっていて、それをうれしそうに周りに自慢するんです。しかも、『大空と大地の中で』は、歌詞を見ずに、ミヨさん独特の歌いまわしで歌えていました。息子を誇りに思う気持ちは、最期まで消えることがありませんでした」(前出・足寄町民)
記憶が失われていく母とその息子の間には、ひとつの約束があった。
「千春さんはお母さんと、『母さんの100才の誕生日には盛大なパーティーをするから』と約束していました。この約束は、お母さんの認知症が進行する前の、最後の約束だったんです。ですから、千春さんはその約束をとても大切にしていました。お母さんだって、楽しみにしていたと思います」(前出・足寄町民)
その約束は、あと2か月という目前で、果たせぬものになってしまった。
葬儀の日は、連日の暖かさが嘘のようにグッと冷え込み、マイナス21℃。頰を伝う涙も凍る一日だった。
※女性セブン2021年2月11日号
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