忘れられない記憶…戦争体験を若い世代に伝えるのが使命|毒蝮三太夫インタビュー【連載 第32回】
太平洋戦争末期、9歳の石井伊吉少年は母親に手を引かれて、降り注ぐ焼夷(しょうい)弾の中を必死で逃げた。高齢者の気持ちの「伝道者」である毒蝮さんは、リアルな戦争体験を若い世代に伝える「語り部」でもある。九死に一生を得て家に帰る途中、焼け跡に落ちていた一足の革靴。それを拾った体験を語ることで、若者に伝えたかったこととは。(聞き手・石原壮一郎)
年寄りにとって戦争はけっして「昔の話」ではない
この記事が出るのは12月8日か。1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まった日じゃねえか。それから日本は泥沼に入り込んで、1945(昭和20)年8月15日にボロボロの状態で敗戦を迎えた。あっという間に75年だよ。
俺は9歳で敗戦を迎えたから、戦時中のことははっきりと覚えている。戦争体験者は、だんだん“絶滅危惧種”になってきた。そのひとりとして、若い人たちに戦争のことを伝えておくのは、やらなきゃいけない大事な役目だと思ってる。
このあいだの聖徳大学の講義では、俺たちの青春時代のことだけじゃなくて、空襲のことや九死に一生を得て家に帰る途中の出来事についても話した。女子学生たちは神妙な顔で聞いてくれてたけど、何かを感じてくれたんじゃないかな。どんな話か、ここでも紹介しょう。
→毒蝮三太夫が大学生に説く高齢者とのコミュケーション極意とは
東京大空襲で下町が焼け野原になったのは、昭和20年の3月10日だった。俺んちはそのとき、品川区にある戸越銀座の蕎麦屋の2階に間借りして住んでたんだ。避難した高台から、15キロぐらい向こうの下町が真っ赤に染まっているのが見えた。まさか、そこで10万人の人が亡くなってたなんて思わないよ。あれはアメリカに殺されたんだ。
アメリカは東京やいろんな都市を焼け野原にすれば、日本は戦意を喪失するだろうと考えた。最初は軍事施設を狙ってたけど、そのうち一般の住宅を標的にB29で大量の焼夷弾を落としたんだ。焼夷弾ってヤツは空中ではじけて、火のついた油の固まりをまき散らす仕組みになってる。日本の木造の家を徹底的に焼き尽くすために作られた爆弾なんだ。
やがて品川のほうも狙われるだろうと思ってたら、5月24日の夜中に大空襲があった。次々にやってくるB29は、操縦士の顔が見えるぐらい低くを飛んでる。あちこちで焼夷弾が炸裂して、町はあっという間に炎に包まれた。消そうとしたって、とうてい消せっこない。もうダメだってんで、おふくろに手を引かれて桐ケ谷ってところの空き地に逃げた。
火に巻かれないように風上に向かって走ったんだけど、まわりじゅう火の海だから、身体を吹き飛ばされるぐらいのすごい風が吹いている。しかも半端じゃなく熱い。あまりにも目が痛くて、おふくろに「もう死んだほうがマシだ」って言ったのを覚えてる。それでも、どうにか逃げることができた。逃げる方向が違っていたら、間違いなく死んでただろうな。
やがて夜が明けた。住んでた蕎麦屋が焼けてなくなってるのはわかってたけど、とにかく帰らなきゃしょうがない。歩き始めたら、いたるところに焼けた死体が横たわってた。そのときは感情が麻痺してたんだろうな。辛いとも悲しいとも気の毒だとも思わなかった。ただ、踏んだら悪いと思って、死体をそっとまたぎながら進んだ。
焼け跡に残された子ども用革靴の中に…
地面には焼け残った木っ端がくすぶってて、歩くうちにズックの靴が焦げてきた。足の裏が痛くてしょうがない。ふと見ると、道の脇に子ども用の革靴が落ちてる。当時、靴は貴重品だ。俺は「わあ、靴だ!」って言いながら近づいた。焦げたズックと履き替えようと思ったんだ。持ち上げてみると、ずっしりとした重みがある。紐をといたら、片方の靴に足首が入っていた。履いていた子は、おそらく焼夷弾の爆風で飛ばされたんだろう。
俺は足首を靴から出した。血はまったく出ていなかった。そして自分の靴と履き替えた。おふくろは何も言わなかった。信心深いおふくろだったから、いつもなら「なんてことするの! このバチ当たり」って怒って止めただろうけど、見て見ぬふりをしてくれたんだ。きっと、靴を履いていた子に心の中で手を合わせて、「あなたに代わって息子がこの靴を履いて、靴の命をつなぎます。どうか許してください」って謝っていたじゃないかな。
今の感覚で言えば、靴を履き替えた俺も見て見ぬふりをしたおふくろも、普通じゃないかもしれない。でも、それが戦争なんだ。責任転嫁するわけじゃないけど、戦争という極限状態に置かれると、人間は普通じゃなくなってしまう。それが戦争の怖いところだし、悲しいところでもある。戦争は二度としちゃいけないんだよ。学生がそう感じてくれたら、俺も話した甲斐があるってもんだ。
戦争を体験した当事者は、どんなに時間がたっても忘れることはできない。戦後すぐぐらいに生まれたジジイやババアだって、子どものころは身の回りに戦争の名残があったし、大人からも話を聞いただろう。ある年代以上の人たちにとって、戦争はけっして「昔の話」じゃないんだ。しょっちゅう話題にする必要はないけど、若い人にせよ中年世代にせよ、年寄りと接するときにはそういうことを頭の隅に置いておくといいんじゃないかな。
マムちゃんの極意
毒蝮三太夫(どくまむし・さんだゆう)
1936年東京生まれ(品川生まれ浅草育ち)。俳優・タレント。聖徳大学客員教授。日大芸術学部映画学科卒。「ウルトラマン」「ウルトラセブン」の隊員役など、本名の「石井伊吉」で俳優としてテレビや映画で活躍。「笑点」で座布団運びをしていた1968年に、司会の立川談志の助言で現在の芸名に改名した。1969年10月からパーソナリティを務めているTBSラジオの「ミュージックプレゼント」は、現在『土曜ワイドラジオTOKYO ナイツのちゃきちゃき大放送』内で毎月最終土曜日の10時台に放送中。84歳の現在も、ラジオ、テレビ、講演、大学での講義など精力的に活躍中。最新刊『たぬきババアとゴリおやじ 俺とおやじとおふくろの昭和物語』(学研プラス)は幅広い年代に大好評!取材・文/石原壮一郎(いしはら・そういちろう)
1963年三重県生まれ。コラムニスト。「大人養成講座」「大人力検定」など著書多数。この連載では蝮さんの言葉を通じて、高齢者に対する大人力とは何かを探求している。
撮影/政川慎治