連載

シニア特急~初老の歴史家、ウェールズへ征く~<15>【連載 エッセイ】

 長年、イギリス史を研究してきた、歴史家でエッセイストの桜井俊彰氏は、60代半ばにして、自身にとって「行かなければいけない場所」であったウェールズへの旅に出かけます。

 桜井さんのウェールズ旅の軌跡を、歴史の解説とともに綴った、新しいカタチの「歴史エッセイ」で若いときには気づかない発見や感動を…。

 シニア世代だからこそ得られる喜びと教養を堪能してください。

 さあ、『シニア特急』の旅をご一緒しましょう!

【前回までのあらすじ】

 ウェールズの大聖堂「セント・デイヴィッズ」にゆかりの深い『ジェラルド・オブ・ウェールズ』の本を日本人向けに出版した桜井氏は、「セント・デイヴィッズ」に訪れ、その著作を寄贈することを夢見ていた。

 そして、ついに念願が叶い、ウェールズへの旅へ出発する。

 飛行機、列車、バスを乗り継ぎ、無事に目的地である大聖堂「セント・デイヴィッズ」のある街、セント・デイヴィッズに到着した。

 宿はB&Bの「Ty Helyg(ティー・へリグ)」。早速、訪れた大聖堂は土地の谷底にそびえ建っていた。神聖なる聖堂の中へ入り、ついにジェラルド・オブ・ウェールズの石棺に出合う! そして、ジェラルドについて記した自著を大聖堂「セント・デイヴィッズ」へ献上した。宿に戻り、歓待してくれた主人夫妻にも自著を手渡して、一緒に楽しいひと時を過ごす。その際、「セント・デイヴィッズ」の現在の高位聖職者の写真も見せてもらうのだった。翌朝は早々に目覚め…。

→第14回までを読む

(2017/4/11 セント・デイヴィッズ→ハーバーフォードウェスト→ペンブローク)

VI そして、「奇跡」は起きた【2】

●再びカテドラルヘ

 7時をすぎた。さすがに外はすでに明るく、着替えた私はそっと2階から階段を下りる。

 静かだ。まだグレッグもエリンも起きてはいないようだ。カメラを入れたバッグを肩にかけ、私はそっと玄関から外に出る。少し寒い。でもとてもすがすがしい朝だ。

 さっきテレビで見たBBCウェールズの天気予報では今朝のカーディフの気温は7℃といっていた。セント・デイヴィッズも似たような温度だと思う。

 が、外に出るともう少し温度が高い気がした。暑いのが苦手な私にとっては、こういう気候はたまらない。

 天気予報によると昼は15℃くらいになるらしい。最高に好きな温度である。

 私は外で体操をした。NHKラジオ体操を変形したやつで、気分がいいときによくやっている。

 変形ラジオ体操が終わりかけたところで、グレッグがドアから顔を出した。

 お互い”Good Morning!”と声をかけ合う。静かでとてもよく寝られたと私はグレッグに感謝した。

「朝食は9時からだが、いつ食べる?」とグレッグ。

「いまからもう一度カテドラルに行く。だから、9時はちょうどいいね」
「わかった、朝日が当たる塔は素晴らしいよ」

 グレッグの声に送られ私は昨日歩いた道を再び進む。

 右手の放牧地の柵の近くで二頭の子羊がくつろいでいたので、私はニコッと笑って挨拶をした。少しの間、子羊たちはこっちを向いて目をきょとんとさせていたが、すぐに一目散に母親のもとに駆けていった。ヘンなおやじだと思ったに違いない。

 きっちり5分。昨日と同じように、すぐにセント・デイヴィッズの町の中心部に来た。

 ほんと、ティー・ヘリグは抜群のロケーションにある。もし町の中心部の宿に泊まっていたら、海は見えないだろう。でもグレッグとエリンのB&Bはオーシャンビュー。それでいて大聖堂にとても近い。

 何も知らない私がこういう宿を取れたのは、ひとえに運がよかったのだ。旅にはこういう面があるから楽しい。

 もちろん、あて外れも当然あり、私は常々人の幸運と不運の総量は結局同じだとの持論を持っているから、この旅のどこかでティー・ヘリグで味わった心地よさを帳消しにする「がっかり」に遭遇することは大いにありうる。

 それもSo be it(それが運命なら、そうなるまでだ)、フランス語ならC’est la vie(セ・ラ・ビ=それが人生さ)だな、と、私は結構いい気持ちでいる。

 第1次世界大戦戦没者メモリアルの十字架に再びこうべを垂れる。そして下り道の先に視線を向ける。その先には昨日と同じ、大聖堂の塔の先端があった。

 いや、違う。昨日と同じではない。塔は輝いていた。朝日をあびて、朱色、というか黄金色というか、とても美しく輝いていた。

 私は急ぎ道を下る。塔が全容をどんどん現してくる。門をくぐる。グレッグが言った通りだ。そこには壁面の石材に当たった朝日を全力で反射しているとしか思えない、昨日と全く違った、神々しいばかりの輝くカテドラルの姿があった。

─―西方浄土だ―─

 このとき、私の中に素直に現れた言葉だった。

 ブリテン島の西の果て。いや、ヨーロッパの西の果て。遥か昔から、巡礼たちが中途で倒れるのを覚悟で目指した地。ここを形容するにはこの言葉がふさわしい。あらゆる宗教を超越した、魂の旅の果ての答えが、ここにはある。そんな気持ちに包まれていた。

●そして、遭遇

 カテドラルの敷地の通路を下り谷底に着いた私は、昨日向かった建物の西端の入り口とは反対の東側に向かった。

 こちらから大聖堂の裏に回って一周したかったのだ。東側には敷地の斜面がすぐそばに迫っていて、そこに葬られている昔からの人々の墓石や石板を間近に見ることができる。教会とは祈りの場であるのと同時に墓地でもあるという当たり前のことを、今さらながらに実感する。

 建物の壁に触れる。冷たい。が、ごつごつとした感触ではない。表面をきれいに仕上げてある外壁用の化粧板なのかもしれない。私は石材の専門家ではないが。

 カテドラルの裏側にきれいな水が流れる水路があり、小さな石橋が架かっていて背後の敷地に渡れるようになっている。

 橋の先は、また上に向かう斜面になっていて、ほんとうに「セント・デイヴィッズ」が谷底に建てられたことがよくわかる。

 その石橋をちょうど渡り終えたとき、向こうから聖職者の黒服に身を包んだ人が歩いてくるのが見えた。

 その人が誰だか、まだ近づく前から、私にはすぐにわかった。

 昨日、眠る直前にグレッグが見せてくれた「セント・デイヴィッズ」の高位聖職者たちの写真、その中にいた恰幅のいい、穏やかな顔をした特徴のある男性。

 大聖堂の幹部、参事司祭(Canon Residentiary)に間違いない。まさか、その人に会えるとは。なんという偶然。

 やがてすぐそばまで来た私たちは会釈をし、”Good Morning”と言葉を交わした。

 そのとき、参事司祭は続けていった。

「どちらから来られました?」

「日本から来ました。このカテドラルにゆかりの深いジェラルド・オブ・ウェールズに会うために」

 そう答えた私の耳に、信じられない彼の言葉が入ってきた。

「あなたでしたか! 昨日われわれのモンクにご本を託されたのは。そうでしたか。あなたでしたか」

 伝わっている! びっくりした。

 昨日、案内係の若い聖職者に自著を奉納したことは、しっかりと教会の上の人たちに申し送りされている!

 嬉しかった。実際、私は納めてもらえただけで満足し切っていた。

 わけのわからない日本人がわけのわからない言葉で書いたものを持って来たなと、そっぽ向かれたらどうしようかと、内心不安にさえ思っていた。突然訪れたわけだし。だから受け取ってもらえただけで、ほんとうによかったのだ。そのことで20年の念願を遂げることができたのだから。グレッグに「これでいつ死んでもいい」と漏らしたくらい、それだけでもう本望だった。

 しかし、私がジェラルドの本を納めたことはきちんと上層部に伝えられ、教会中が知るに至っている。いま、参事司祭の言葉でそれがわかった。すごい!

 私はあたふたとショルダーバッグのチャックを開け、中をあちこちまさぐって名刺入れを探し出すと、一枚ぬいて参事司祭に差し出しだ。

 その名刺には裏にもアルファベットで表の日本語と同じことが印刷されていて、少なくとも私は何者で、どういう名前なのかはこれでわかってもらえる。

 そう、私の本は全部日本語で書いてある。だからこのままだと著者の名前すらわからないだろう。奉納することしか頭になかった昨日はともかく、こうなった今、私の名前すらわからないのはさすがにまずいし、第一カテドラルのみなさんに失礼だった。

 参事司祭は、快く名刺を受けとり、ゆっくりと目を通した。そして、再び丁寧に会釈をしてくれた。

 私はすっかり上気していた。そこから少し、会話のやり通りがあったと思うが、もうあとは朦朧としていてよく覚えていない。

 ただ、「これから朝の礼拝がありますので」と、黒服の裾をゆっくりと揺らしながらカテドラルに向かっていったその大きな後ろ姿は、しっかりと目に焼き付いている。

●「奇跡」が起きた朝

 ティー・ヘリグへの帰路、私は気持ちがずっと高ぶっていた。

 私は考えていた。参事司祭に会えたことは偶然か、必然か。

 朝、教会に行けば朝の礼拝に向かう聖職者に会うのは珍しくはないだろう。ただ、私がカテドラルの裏側に回らなければ、あるいはもう少し早く来ていたなら、いや早く来ずともちょっと遅く来ていたら、参事司祭には遭遇しなかったはずだ。

 だが、私は会えた。しかも、私はグレッグが昨日見せてくれた写真で彼の顔をはっきりと覚えていた。

 なぜ、グレッグがあそこで写真を見せてくれたのか。さっき、なぜ私がウェールズに来てまで変形ラジオ体操をしたのか。しなければその分早く着いて間違いなく彼には会えなかった…。

 いろいろ考え、こう結論することにした。ジェラルドが私に、あそこで参事司祭に出会える「小さな奇跡」をプレゼントしてくれたのだと。

 そう考えたほうがすっきりできるし、納得できる。うん、たぶんそういうことでいいだろう、そう考えよう。

 私は心地よい気分に浸りながらティー・ヘリグのドア開け、キッチンにいるグレッグとエリンに今帰ったと挨拶した。

 そして二人に、昨日見せてくれた教会幹部の写真の中の、参事司祭にさっきカテドラルで会ったこと、彼は昨日私が奉納した本のことを知っていて、私に会えたことを喜んでくれたこと、それで私は嬉しくて舞い上がってしまった、といった一連の顛末を話した。

 するとグレッグはこう返してくれた。

「トシ、それはジェラルドがセント・デイヴィッズの責任者に会えるように導いてくれたんだよ。よかった、よかった」

 素晴らしい! グレッグも同じ見解である。そうだ、やっぱりそう思っていいのだ。ありがとう、ジェラルド、そして「セント・デイヴィッズ」。ああ、何という朝だ。この朝は、一生忘れられないな。

→16回を読む

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桜井俊彰

桜井俊彰(さくらいとしあき)

1952年生まれ。東京都出身。歴史家、エッセイスト。1975年、國學院大學文学部史学科卒業。広告会社でコピーライターとして雑誌、新聞、CM等の広告制作に長く携わり、その後フリーとして独立。不惑を間近に、英国史の勉学を深めたいという気持ちを抑えがたく、猛烈に英語の勉強を開始。家族を連れて、長州の伊藤博文や井上馨、また夏目漱石らが留学した日本の近代と所縁の深い英国ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の史学科大学院中世学専攻修士課程(M.A.in Medieval Studies)に入学。1997年、同課程を修了。新著は『物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説 』(集英社新書)。他の主なる著書に『消えたイングランド王国 』『イングランド王国と闘った男―ジェラルド・オブ・ウェールズの時代 』『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 』『英語は40歳を過ぎてから―インターネット時代対応』『僕のロンドン―家族みんなで英国留学 奮闘篇』などがある。著者のプロフィール写真の撮影は、著者夫人で料理研究家の桜井昌代さん。

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