在宅医療を選んだ父 亡くなる2日前には焼肉店で食事楽しむ
盛岡に住む認知症の母を東京から遠距離で介護を続け、その記録をブログで公開している工藤広伸さん。息子の視点で”気づいた”“学んだ”数々の「介護心得」を、当サイトでも数々紹介してもらっている。
今回のテーマは、「父」。在宅医療を受けてきたお父様が他界されたのだ。
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悪性リンパ腫(血液のがん)の父が先日、76年の生涯を閉じました。緊急入院から3か月という短い闘病生活でしたが、親子で中身の濃い時間を過ごすことができました。4年間も音信不通で、不仲だった父(こちらの記事を参照)との最期の3か月を振り返ります。
父が救急病棟に入院したのは37日間
入院する前の父は、お腹の痛みを「単なる腹痛」だと思い、市販の胃薬で数か月しのいでいたそうです。痛みに耐えられなくなった父は、自分でタクシーを呼び、救急センターへ向かいました。小腸に穴が開いていることが分かり、そのまま緊急手術になりました。
小腸を切除して縫合したのですが、その後の検査で悪性リンパ腫と判明、余命1か月から3か月という宣告を医師から受けたのです。
入院中、食事はおかゆのみ、水分は氷をなめることしかできなかった父はどんどん痩せ、最大で20㎏も体重が減少しました。たくさんの管につながれ、病院の天井だけを1日中眺め、生きる気力を失った父は幻覚が見えるようになり、医師から今後の治療方針は家族が代理判断するようにと言われるまで弱っていました。
医師は、積極的な治療は余命をさらに短くしてしまうため、別の病院へ転院して痛みだけを取る緩和ケアを勧めてきました。
しかし、わたしがそれを拒否しました。在宅医療や在宅看取りのいい事例を多く知っていましたし、その可能性にかけてみたかったからです。
病院に居たほうが安心だと考えたわたしの妻、妹、そして父本人も、最初は在宅医療に反対しました。それでも、認知症の母がお世話になっていたかかりつけ医が、在宅医療のプロだったことが後押しとなり、自宅で最期を看取ることになりました。
自宅に戻ってきてから起きた”奇跡”
37日間の入院生活を終え自宅に戻った父は、何もできませんでした。ベッドのすぐ真横にあるポータブルトイレにも、自力で移ることができません。食欲がなく、栄養補給の薬で食事をサポートしないと生きられないほどの状態でした。
しかし、自宅に戻って1週間も経たないうちに大好きなメロンパンやプリンを食べ、炭酸飲料まで飲むようになったのです。少しの晩酌も医師から認められ、その回復ぶりに誰もが驚きました。あっという間に、体重は8kgも増えました。
「あんなまずい病院のおかゆは、もうたくさんだ!」と、自宅に戻った父は怒っていました。
わたしは、少しずつ食欲が出てきた父に、「宇宙飛行士が、なぜ地球に帰ってきたら自分で立つことができないのか?」という話をしました。重力がもたらす筋肉への負荷、動かないと人は筋力がどんどん落ちて、寝たきりになるということを伝えたのです。すると、作業療法士とリハビリに真剣に取り組むようになりました。
その結果、ベッドで寝たきりだった父は、ひとりでトイレに移動できるようになりました。さらに、自力でシャワーを浴び、近くのスーパーへ買い物に行くようにもなったのです。
好きなものが食べたい、自分で立って歩きたいという父の強い意思は、”在宅の力”がもたらしたものだと思います。
「病人に囲まれ、自由のきかない病院では、何もやる気が起きなかった」と父も言っていました。
在宅医療の医師も「病院が病気を作っている」と感じることもあるそうで、これは奇跡ではなく、在宅医療ではよくあることだと言っていました。
最期の晩餐は「焼肉」
「1年くらいは生きられる」と、父本人も思っていました。しかし、人生の終わりは、思いがけないスピードでやってきたのです。
亡くなる2日前に、自宅で点滴中の父が訪問看護師さんと話していたことは、「人生の最後に何を食べたいか」でした。父は満面の笑みで「百貨店で売っている青森県産のステーキを、自分でミディアムレアに焼いて食べたい」と言っていました。
「ステーキじゃないけど、今から焼肉に行くよ」
実は、その前日にわたしは父とお墓の件で大ゲンカしたのですが、なぜか最後は焼肉を一緒に食べに行くことになっていたのです。
約束通り、焼肉店に行き、コップ1杯のビールを飲み、牛ロースとたまごかけごはんをペロリと食べた父の様子を見て、安心しました。
2週間後の再会を約束して、わたしは東京へ帰ったのですが、これが最期の晩餐になってしまったのです。
焼肉の翌日は、わたしの妹と父の姉が全国のがんサバイバーが集まる温泉施設「花巻トロン」へ連れて行ってくれました。しかしその日は体調が悪く、父はお風呂に入らずにそのまま帰ってきたとのこと。
自宅に戻ると痛みが増し、痛みを和らげるモルヒネの投与が開始されました。その時、かかりつけ医は、父にこう聞いたそうです。
「何かあった場合は、病院で最期を迎えたいですか?」
「いえ、自宅がいいです」
しかし、深夜に痛みに耐えられなくなった父が連絡した先は、会社の元同僚でした。いつもなら24時間緊急対応の在宅医に電話をするのですが、痛みで正常な判断ができなかったのかもしれません。驚いた同僚が救急車を呼んで、結局、前に居た病院へ緊急搬送されたのです。
その3時間後に、父は息を引き取りました。自宅での最期を望んでいた父ですが、残念ながら実現しませんでした。
最期の瞬間まで「日常生活」を送った父
わたしは死ぬ直前まで一緒にビールを飲めたこと、30年ぶりに一緒に温泉に入ったこと、最期に焼肉を食べられたことを、本当によかったと思っています。4年という空白期間を、3か月で埋められた気がしました。
腹痛で緊急入院し、余命を告げられた時点で、父の命は終わったも同然と誰もが思いました。しかし、最期にもうひと花咲かせることができたのは、在宅医療・在宅看取りを決断できたからと思っています。
「病院のベッドで弱りゆく姿をただ見守る終わり」ではなく、「最期の瞬間ギリギリまで、父と一緒に日常生活を楽しめたこと」にわたしは満足していますし、きっと天国の父も満足していると思うのです。
今日もしれっと、しれっと。
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工藤広伸(くどうひろのぶ)
祖母(認知症+子宮頸がん・要介護3)と母(認知症+CMT病・要介護1)のW遠距離介護。2013年3月に介護退職。同年11月、祖母死去。現在も東京と岩手を年間約20往復、書くことを生業にしれっと介護を続ける介護作家・ブロガー。認知症ライフパートナー2級、認知症介助士、ものがたり診療所もりおか地域医療推進室非常勤。ブログ「40歳からの遠距離介護」運営(http://40kaigo.net/)