太田光代 亡き義母を老人ホームに預けたことへの葛藤
光と光代は1990年に結婚。それぞれの両親とは同居せず、夫婦ふたりで暮らしていた。よくある嫁姑のいざこざは一切なく、ふたりは円満な関係を築いていた。しかし、2013年、大きな転機が訪れる。光代の母が熱中症で病院に搬送された。当時87才だった母をこれ以上ひとりにできないと考え、自宅に呼び寄せた。
それからたったの2か月後、今度は瑠智子さんが道で転んで股関節を骨折。伝い歩きがやっとの状態で、一人暮らしは不可能となった。夫婦は共に一人っ子で頼れる身よりもいない。実母と住む自宅に呼びよせるか、老人ホームに預けるか、悩んだ。当時、女性セブンのインタビューでその葛藤を吐露している。
《本当は私たちの家に連れて行きたいんですよ。私たち夫婦、母、そして義母と全員同居が理想なんです》
《やはり親族からは“嫁姑が一緒に住むだけでも大変なのに、親同士が同居は難しいんじゃないか。賛成できない”という反対の声が多くて》
これが決め手となり、老人ホームに入れることを決心した。それでも苦悩は続く。
《お義母さんはテレビが好きなので、大きなテレビを入れてあげて、母の日にはベランダにお花を飾ったら喜んでくれて》
《文句は言いませんが、やはり本音では施設で暮らすことで無理させてるんじゃないかなって思って…》
《今でも本当にこれでよかったのかと葛藤する自分が、どうしてもいるんです…》
悩みながらも週2回義母の元へ通い、介護を続けた。
前述の通り、光代は最期の日、ニューヨークに滞在。いつも通り義母と話をして日本を発った彼女にとって、突然の訃報は青天の霹靂だった。母の危篤の知らせを受けた光は、急いで病院へと駆けつけた。光は、告別式後の挨拶でその時の様子を語っている。
「脈が下がって、お医者さんから“もしかしたら脈を上げる薬よりも緩和させてあげた方がお母様も楽だと思います”と言うのでそういう薬を入れてもらったら、本当に徐々に心拍数と酸素濃度が減っていって。その時ふと慌てて僕が今かかっていた越路吹雪さん(享年56)をお袋が好きだったことを思い出しまして、iPodで探して(イヤホンを)耳に入れて“聴こえるかなぁ”と思いながら。そしたら『愛の讃歌』と『バラ色の人生』の2曲をきれいに聴き終わった瞬間に心臓の数値が0になりました」
生前の様子について、同じ老人ホームに住んでいた友人がこう振り返る。
「とても素敵なかたでね。ホームのみんなに愛されてた。光さんと光代さんのことは、いつも嬉しそうに “毎日来てくれるのよ”って自慢してた。ある日、“私、爆笑問題好きよ”って言ったら、それはもうもっと嬉しそうな顔になって“ありがとう”って。そんな毎日を彼女はとても楽しんでたと思う。ホームでの様子は本当に幸せそうでした」
※女性セブン2016年12月1日号
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