《やさしいが続かない問題の解決法》偉人の言葉に学ぶ、平常心を保つために朝一番に自分に言い聞かせるべきこと
パートナー、友人、同僚──。継続する人間関係において最初こそ相手にやさしくできても、それをずっとつづけられる人は多くない。それは古来からの人間の悩みでもある。
ものごとをありのままとらえようと試みる「現象学」を専門とする哲学研究者、東洋大学文学部哲学科教授・稲垣諭さんが、やさしいの内実にせまり、読んだらやさしいがつづく確率が高まるという『やさしいがつづかない』(サンマーク出版)より一部抜粋、再構成してお届けする。
教えてくれた人
哲学研究者、東洋大学文学部哲学科教授・稲垣諭さん
北海道生まれ。青山学院大学法学部卒業。東洋大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了(文学博士)。自治医科大学総合教育部門(哲学)教授を経て、現在、東洋大学文学部哲学科教授。専門は現象学、環境哲学、リハビリテーションの科学哲学。著書に『大丈夫、死ぬには及ばない 今、大学生に何が起きているのか』(学芸みらい社)、『絶滅へようこそ 「終わり」からはじめる哲学入門』(晶文社)、『「くぐり抜け」の哲学』(講談社)、翻訳書にドン・アイディ著『技術哲学入門:ポスト現象学とテクノサイエンス』(晶文社、増田隼人・沖原花音との共訳)など。
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偉人たちもやさしさで悩んでいた:やさしくなれなかった人間の歴史
私は哲学の研究をしています。2500年の歴史をもつ西洋哲学を学んでいると、とりわけ倫理学という学問に関してですが、それはやさしくなれなかった人間の格闘の痕跡であることが理解できます。
哲学の歴史とは、人間がもがいてきた苦しみの記憶なのです。少しだけ昔の人の言葉を見てみましょう。
紀元2世紀を生きたマルクス・アウレリウス(AD.121─180)という哲人がいます。彼は第16代ローマ皇帝で、学識も豊かな「やさしい」賢帝でした。
彼が自分のために書いていた『自省録』を読んでみると、この当時から人々は、些細なことにわずらわされてしまい、そうではない生活、つまり「平常心(アタラクシア)」を切に求めていたことがわかります。
当時の人も、どうすればそうした生活が送れるのかいつも悩んでいたことに他なりません。
アウレリウスは述べています。
「朝から自分にこう言い聞かせておくのがいい。うるさい人、恩知らずな人、横柄な人、裏切り者、嫉妬する人、人づき合いの悪い人に私は出くわすだろうと(*1)」
朝一番に、自分にまずそう言い聞かせておけば、その日に厄介な人や揉め事が現れても心の準備ができているので、「お、きたきた、やっぱり現れたか!」とやさしい気持ちで接することができる、そう考えていたようです。
これは今でも使える優れたスキルだと思います。
また彼は、
「自分は何も損害は受けていない、そう考えるようにしなさい。そうすればあなたは損害を受けなかったことになる(*2)」
とも述べています。
ちょっと笑ってしまいそうなユーモアにも聞こえますが、これこそ、フリーライドを許すための心構えでしょう。
場合によってこれは、自分に対する不正や不利益を許すことにもなるので必ずしもいいこととはいえないのですが、それでも見て見ぬふりができ、損害がないと心から思えれば、おおらかで平穏な心の状態に近づくことができる、そう考えられていたのでしょう。
今から2000年も前の人も、現代の私たちと同じような悩みを抱えていたことの片鱗が見えてきたでしょうか。アウレリウスは、「他人について思い悩むことで、あなたの人生を消耗するな(*3)」とも述べています。きっと彼もそう書かずにいられないほど悩んでいたにちがいありません。
しかもこうしたことは、アウレリウスだけではありません。これまでの有名な西洋の哲学者たちが作り上げた倫理学を見てみると、どれもその奥底に人間の「やさしいはつづかない」という悩ましい問題があったことがわかります。
そのいくつかを簡単に紹介してみましょう。どれも少し強引ですが、私自身がアレンジしたまとめになっています。
・バルフ・デ・スピノザ(1632─1677):近代哲学の有名人のひとりです。彼はアムステルダムのユダヤ人地区で暮らしていましたが、神を信じない「無神論」の誹(そし)りを受けてシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)から破門され、その地区を離れざるをえなくなった孤高の哲学者です。彼の『エチカ(倫理学)』という本の問いは以下です。どうして人は喜びと愛を高める方向ではなく、自分を否定し、生命や物を破壊するような悲しみに引きずられてしまうのか?
・イマヌエル・カント(1724─1804):ドイツの近代哲学者の最高峰のひとりです。『純粋理性批判』という本が有名ですが、その姉妹本のひとつ『実践理性批判』という本の中で、彼が向き合おうとしている問いは以下でした。私たちは他人を人格として尊重するよりも、使いやすい手段として利用してしまうが、そのとき感じるあの後ろめたさの正体は何か?
・マルティン・ブーバー(1878─1965):彼もユダヤ人ですが、現代哲学にとって重要な「対話の哲学」を作り出しました。彼の『我と汝』という本が問題にするのは以下の問いです。私たちはテーブルの上にある醤油を「それ」とってと誰かに簡単に頼むが、目の前にいる人は決して醤油のような「それ」ではないのに、どうしてその人を「モノ」のように扱ってしまうのか?
・エマニュエル・レヴィナス(1906─1995):「他者」の存在について論じた現代の倫理学者です。彼もユダヤ人であり、ナチズムによるホロコーストからはかろうじて逃れましたが、抑留生活を強いられていました。彼の『全体性と無限』という本の核心となる問いは以下です。他人を自分と似たようなものと思い込み、自分の枠に他人を当てはめては失望し、その他人に殺意をもつにいたるのはなぜか?
どの問いも、やさしくなれない人間の弱さと恐ろしさを下敷きにして立てられた倫理学的問いであることがわかりますね。
倫理学者の中にはカントのようにユダヤ人ではない人も多くいます。しかし、とりわけ現代におけるユダヤ人哲学者の多くが新しい倫理学を打ち立てようとしたのは、ホロコーストという人類の歴史上、最もやさしくなれなかった人間による加害行為を誰よりも身に受けてきた歴史があるからかもしれません。
偉大な哲学者たちの思想をこのように簡単にまとめてしまうのは、それこそやさしいふるまいではないと怒られてしまいそうです。しかしそれでも、彼らの思想の根本に「やさしいはつづかない」という想いが流れていることが理解できれば、一度は彼らの本を直接読んでみたいと思う人も出てくるかもしれません。
とはいえ、彼らの本は残念ながらとてつもなく難しいです。「もっとやさしく書いてくれ」といいたくなりますが、偉大な哲学者にとってもやさしいことは簡単ではないのです。最初はわかりやすい入門書を何冊か読んでみることをお勧めします。
(*1)マルクス・アウレーリウス『自省録』(神谷美恵子訳、岩波書店、2007)24頁
(*2)マルクス・アウレーリウス『自省録』(神谷美恵子訳、岩波書店、2007)53頁
(*3)マルクス・アウレーリウス『自省録』(神谷美恵子訳、岩波書店、2007)37頁