注目のVlog『pokkoma life』服部美智子さん(67才)シンプルな暮らしに影響を与えた実母と義母のエピソード
60才を過ぎて始めたYouTubeチャンネル『pokkoma life(ポッコマライフ)』を運営する服部美智子さん。60代ならではの生活を丁寧に、包み隠さず描く動画(Vlog、ブイログ)が人気だが、普段から「なるべく物を持たないシンプルな暮らし」を目指しているという。その背景には、母親の存在があった。【Vol.2/全3回】
pokkomaさん(服部美智子さん)67才/プロフィール
1958年徳島県生まれ、大阪育ち。3才年上の夫と二人暮らし。長男、次男、長女の3人の子供と5人の孫を持つ。日々の生活を丁寧に綴ったYoutubeチャンネル、Vlog『pokkoma life』が人気。著書に『60歳を過ぎてから見つける ちいさな暮らしの幸せヒント』(Gakken)がある。https://www.youtube.com/@pokkomalife
母親の影響で手作りの世界を表現
――Vlogではお菓子やパンを手作りする動画も人気です。
昔、母が手作りのお菓子をよく作ってくれていました。母は仕事をしていて、家に帰っても誰もいないんですが、学校から帰ると何かしらのおやつがテーブルに置いてありました。
当時、母が作ってくれて嬉しかったのはシュークリームです。皮から焼いて、カスタードクリームも手作りでした。時々、母がシュークリームを作っている姿を隣で見ていました。赤いホーローのお鍋でカスタードクリームをかき混ぜながら、母は『シュークリームを作るのは大変なのよ』と話していたのをいまでも鮮明に覚えています。おはぎやアイスクリーム、水羊羹なんかも作ってくれました。
――手作りがお好きなのは、お母様の影響があるのですね。
そうかもしれませんね。父が経営していた工務店で、母は経理や事務を担っていました。仕事をしつつ徹夜で趣味の貼り絵やお菓子作りをしたりする母の背中を見て育ちました。忙しい日常中で、おやつを手作りしてくれていたのが本当に嬉しかったんですよね。
高校生になった頃には、母はフルタイムで働いていましたから、母が下ごしらえをしていた食事に火を入れたり、ご飯を炊いたり、家事をしていた記憶があります。朝起きると母はすでに出勤していたので、お弁当も自分で作っていました。母が準備してくれた食材を、自分でささっと調理してお弁当に詰めていましたね。
――高校卒業後、どのような進路を歩まれたんですか。
ピアノを習っていたので音楽の道に進むことも考えたのですが、子供が好きだったので、ピアノが生かせる幼児教育の道を目指しました。幼児教育の短大を出て、幼稚園に就職して4年間働きました。
23才のときに3つ年上の夫と結婚しました。当時は結婚したら寿退社をするのが当たり前でしたが、結婚後1年ほど働いて長男を授かったタイミングで退職しました。その後、次男を出産してしばらくは専業主婦をしていたのですが、ある時、夫が体調を崩してしまって。転職を繰り返して収入が安定しない時期がありました。そこからまた働き始めることになるんです。
親に頼れば楽に過ごせたのでしょうが、親の援助は受けまいと、どこか意地になっていたのかもしれませんね。
当時はまだ子どもたちも幼かったので、自宅でできる仕事はないかと思って、ワープロ教室で資格をとったので、それを活かせるデータ入力の仕事を始めました。
――在宅ワークの先駆けですね。
そうかもしれませんね(笑い)。しばらくすると世の中にパソコンが出始めたので、今度はパソコン教室に通いました。しばらくは在宅ワークをしていたのですが、引っ越しをしたタイミングで自宅の近くにあったファストフード店の閉店後の片付けの仕事を募集していたので、パートをすることにしました。
その後、娘が幼稚園に入園するタイミングで、今度はお掃除の会社でパートを始めました。企業や個人宅のお掃除をする仕事は自分に合っていたんですね。昔から母がきれい好きで、いつも家の中を掃除していましたから、母の背中が大きく影響していると思います。
仕事のことは両親には黙っていたんですが、ある時お掃除に訪れたお宅が、偶然、父の知人のお宅だったので、両親に知れることとなってしまいました。とても楽しいお仕事だったんですが退職して、両親の会社の事務を手伝うことにしました。その後は、コールセンターに長年勤めました。振り返ると、とにかく必死で働いてきましたね。
――ご両親のことを聞かせていただけますか。
親の援助は受けないと言いつつ、3人の子ども達を育てながら仕事を続ける私を見て、何かにつけ助けてくれる両親でしたね。父も母もがんを患って70代で亡くなってしまいました。
私が41才のとき、父は71才で亡くなりました。当時、母は父の代わりに会社を回していかなければならなかったので、父の看病は私が中心になってしていて、病院で寝泊まりすることもありましたね。
その後、母と兄が会社を引き継いだのですが、取引先に不渡りを出されてしまい、多額の負債を抱えることになり経営は厳しくなっていきました。しばらくは経営を続けていましたが、今度は母にがんが発覚して…。母は実家を売却してマンションに移り、通院しながら生活していました。
母の闘病中、私はコールセンターで働いていたのですが、職場と病院を行ったり来たりする生活が続いていました。手が回らないときには、訪問看護の仕事をしていた従姉妹も手伝ってくれて助かりましたね。母は生前、他人様とのつきあいをとても大切にしていたので、闘病中には多くの人が交代で看病に来て下さって恵まれていたと思います。母は、がんが発覚してから1年半後、74才で亡くなりました。
母にがんが発覚したのと同時に、義母がくも膜下出血で倒れてしまったんです。
人生観が変わった「家じまい」の経験
――母、義母を同時にサポートする生活だったんですね。
ええ、当時はきつかったですね。ただ、義母は倒れて病院に入院し、そのまま施設に入ることになりました。まだ70才と若かったので、まさか自分がこのまま家に帰れなくなるなんて思わなかったでしょうね。義母は10年という長い闘病生活の後、自分の家に帰ることなく息を引き取りました。
義母は1人暮らしでしたが、いつも親戚や友人など誰かしらが訪ねてくる家だったので、食器やお布団や家財道具がものすごくたくさんあって、片付けはかなり大変でした。
業者さんに任せると50万ぐらいかかるということで、荷物をまとめるのは自分たちでして、大きなものだけ業者さんに頼むことにしました。片付けは1か月ほどかかって、荷物をまとめてトラックを借りて清掃工場に運ぶんですが、5往復くらいしました。
このときの経験から、無駄なものはなるべく持たない暮らしが、私の中で目標になったんです。ものが多いと残された人が大変だということを、身をもって実感しました。片づけと処分の繰り返しで、今に至っています。
写真提供/服部美智子さん 取材・文/廉屋友美乃