布施博、夫婦チームプレーで乗り越えた「ダブル介護」 認知症だった母の看取りを経てたどり着いた死生観「何のために生きて、何を残して死んでいくのか…物欲がまったくなくなった」
貧しい家庭に生まれ、自身を女手ひとつで育てた母親を2018年に看取った俳優の布施博さん(67歳)。2014年ごろから母に認知症の兆候が現れ、妻で女優の井上和子さん(54歳)とともに在宅介護に奮闘した。同時期に井上さんの母の介護も重なり、夫婦は「ダブル介護」に直面。介護を乗り越えるための夫婦間の協力や、現在の心境を2人に聞いた。【全3回の第1回】
極貧の幼少期を支えてくれた母。同居後に見え始めた認知症のサイン
――実のお母様の介護・看取りを経験されていますが、お母様はどのような方でしたか?
布施さん:子供のころは本当に貧しい生活をしていました。一時期は豆腐屋さんで無料でもらえるおからばかり食べていて、大人になってもしばらくはおからを見るのも嫌だなと思っていたほど。
父親がクセのある人で、給料が出たら酒を飲んで帰ってこない。機嫌が悪いと、配膳したご飯ごとちゃぶ台をひっくり返してしまうような人でした。畳に落ちたご飯を拾って食べたことも覚えています。だからぼくも5つ上の兄貴も、お袋の女手一つで育てられたようなものです。お袋は相当苦労したと思います。2009年、ぼくが前妻と離婚したタイミングで、お袋と同居することにしました。
――2014年ごろから、お母様に認知症の兆候が現れ始めたそうですね。
布施さん:最初は全然わかりませんでした。「認知症」という発想がぼくになかったんです。ただ、飼っている犬にご飯を勝手にあげちゃうんですよ。「さっきあげたからダメだよ」と言っているのに、またあげる。それを何回も繰り返すんです。本人は忘れているんですよね。それがわからなくて、「言ってるそばから、なんでやるんだ!」と怒鳴ってしまったことがありました。それは申し訳なかったですね。
井上さん:私はなんとなく気づいていました。元々おちゃめなところがあるお義母さんだったので、「また冗談言って」と流していた部分もあったのですが……。その頃、私の母が脳出血で倒れ、左半身麻痺になりました。その介護をするため、2014年に今の家に引っ越しました。そこから、それまでよく出歩いていたお義母さんが外に出なくなってしまったんです。
振り返ると、そのころから兆候が出始めていたんですね。お義母さんは血圧の薬をもらうために電車に乗って病院に通っていたのですが、途中でわからなくなって駅から電話がかかってくることも増えました。
布施さん:お袋自身もカレンダーを延々と眺めていたりして、何かを必死に確かめているようでした。病院から「薬の管理ができていない」と電話がかかってきたことをきっかけに受診して、アルツハイマー型認知症と診断されました。
見守りカメラを活用したダブル介護
――ご自宅ではどのような介護をされていたのでしょうか。
布施さん:とにかく同じことを何回も聞いてくるので、それに答え続ける日々でした。例えばデイサービスに行く日も、「今日デイサービスだよね」「何時に迎えに来るんだっけ」「何を持っていけばいいんだっけ」という会話を延々と繰り返すんです。
井上さん:家中に張り紙もしました。「何をしちゃダメ」「ここには何がある」と。
布施さん:一番怖かったのは火の元です。ある日、お袋がお湯を沸かそうとしてやかんを空焚きしてしまったんです。帰ってきたら、焦げついたやかんが塗装が剥がれるまで磨き上げられていました。本人もまずいと思ったんでしょうね。それからはガスコンロをロックするようにしました。ぼくが一緒にいるときも、ガサガサやっているなと思ったら火がついたままになっていたことがあって、肝が冷えました。
――井上さんはご自身のお母様の介護も重なっていたそうですね。ダブル介護は大変だったのではないでしょうか。
井上さん:お義母さんにはデイサービスに行ってもらい、その間に近所にある私の実家に行って母の世話をし、お義母さんが帰ってくる頃に戻って迎え入れるという生活でした。私が実家にいるときは見守りカメラを活用して、困って動き回っている姿が見えたら「今帰るから待っててね」「それはやっちゃダメよ」とカメラ越しにお義母さんに声をかけていました。お義母さんはどこから私の声が聞こえてくるのか、わかっていなかったかもしれない(笑い)。
布施さん:ぼくの仕事が昔のように365日休みなしというわけではなく、ある程度時間が作れたのも大きかったです。ぼくが家にいるときはお袋を見て、彼女には実家に行ってもらいました。相談して役割分担を決めたわけではなく、お互いに負担をかけないように自然とチームプレーができていました。
急変した母との別れ。「富や名声より、妻への感謝」に変わった死生観
――お母様は2018年に肺炎で入院され、その病院で亡くなられたそうですが、入院前には老健(介護老人保健施設)なども利用されたのですか?
布施さん:一時期、老健にお世話になったことがあったのですが、なかなか難しいなと思いました。一生懸命看てくださってはいるのですが、お袋に対しての態度というか対応というか。確かに手を焼いていたのだとは思いますが、ある日「精神科でお薬の調整をして頂かないと、こちらではこのまま居て頂くのは難しいかも」と言われて……。
仕方がないので言われる通りに精神科を受診して薬を処方してもらい、医師から言われたことをお伝えしたのですが「いずれにしてもそのお薬で落ち着くことが確認できるまでは、お預かりすることはできません」と結果拒否された形になったんです。じゃどうすれば? それなら最初から言ってよって、どこか納得のいかない嫌な思いをしたこともありました。
井上さん:その頃、お義母さんは洋服を脱ぎ散らかしたり、大声を出したりして、施設の方も手を焼いていたんだと思います。
――看取りの際は、どのような状況だったのでしょうか?
井上さん:肺炎が少しよくなって、病院から特養(特別養護老人ホーム)に移る段取りができた矢先でした。前日にお見舞いに行ったとき、お義母さんは「ラーメンが食べたい」とずっと言っていたんです。「もう少しよくなったら食べられるよ」と声をかけて帰ったのですが、翌朝早くに急変したと連絡がありました。
布施さん:飛んで行きましたが、もう呼びかけても反応がなく、心電図の数値を見つめるしかありませんでした。心電図がフラットになったとき、「お袋、お袋」と呼んでも全く動かなくて。ただ静かに見届けるしかありませんでした。83歳でした。
――お母様の介護や看取りを経て、ご自身の死生観に変化はありましたか?
布施さん:人間って何なんだろう、何のために生きて、何を残して死んでいくんだろうと考えるようになりました。結局、お金のためにあくせく働いて「成功者」と呼ばれても、お金はあの世に持っていけません。高級車を買って喜ぶ人も、軽自動車を買って喜ぶ人も、喜びの大きさは一緒かもしれない。そう考えると、物欲がまったくなくなりました。若いときは前しか見えないから「車が欲しい」「成功したい」と色々な欲が出ますが、今はもう後ろの道の方が長いですからね。
――そうした考え方の変化は、奥様との関係にも影響していますか?
布施さん:そうですね。彼女の母は2021年に他界したのですが、その頃から今度は彼女の父が介護状態になってしまい、彼女は今、父親の介護をしています。だからぼくは、彼女の負担にならないようにしようと思っています。彼女は介護が終わって帰りが夜遅くなっても、寝る間も惜しんでぼくの食事を作ってくれます。
それなら、ぼくが洗濯をしておいたり、お風呂を沸かしておいたり、掃除をしておく。そういう相手に対する気遣いがないと、夫婦での介護は成り立ちません。彼女の存在に心から感謝しています。死ぬ前に何がしたいだろうと考えるのですが、最期は彼女の手料理を食いたいですね。
◆俳優・布施博
ふせ・ひろし/1958年7月10日、東京都生まれ。1984年、ドラマ『昨日、悲別で』で俳優デビュー。以降『君が嘘をついた』『ずっとあなたが好きだった』など、トレンディドラマを中心に数多くの作品に出演して人気を博す。1994年には自ら劇団「東京ロックンパラダイス」をプロデュースし、後進の育成にも尽力。実母の介護を経験し、現在は義父の介護をする妻を支えている。
◆女優・井上和子
いのうえ・かずこ/1972年4月10日、東京都生まれ。劇団あすなろ、いずみたくミュージカルアカデミーを経て、布施博主宰の劇団「東京ロックンパラダイス」に所属し、数多くの脚本も手掛けていた。2012年4月に布施と結婚。布施の母を二人三脚で介護し、最期を見届けた。現在は要介護5である自身の父の介護を行っている。
撮影/小山志麻 取材・文/小山内麗香
