連載

86才、一人暮らし。ああ、快適なり【第42回 笑って死にたい】

  イチローが引退を発表し、日本のみならず世界中に衝撃を与えたことは記憶に新しい。メジャーリーグベースボールの中継を欠かさず観ているという矢崎泰久氏も、イチローの引退には強く胸を打たれた一人だ。

 1960年代に創刊し、若者の心を鷲づかみにし話題を呼んだカルチャー誌「話の特集」を創刊、30年にわたり編集長を務めてきた矢崎氏に、86才になった現在の心境、生き様を連載で綴っていただくシリーズ、今回のテーマは、そのイチローだ。引退会見で語られたイチローの想いに、矢崎氏の心が動いた!?

 * * *

「笑って死にたい」

 それは、私の言葉ではない。突然、引退を発表したイチローが、決意を述べたものだ。

 45才にして限界を悟ったイチローは、引退の理由として、「笑って死にたい」と言った。

 恐らく彼にとって、ベースボールを辞めることは、死に等しいのだろう。

 イチローほどの経歴(キャリア)があれば、引退後も引く手数多(あまた)に違いない。誰しもそう思う。ところが現役プレイヤーにこだわり続けた彼にとっては、死に等しい出来事だった。

 このストイックな姿勢こそが、イチローが達成した前人未踏の記録を生んだに違いないと思う。

 私たち凡人は、平気で「第2の人生」とか、「老後の楽しみ」などと口にするが、とんでもないことだと、思い知らされた。

イチローの一途な思いに胸を打たれた

 実を言うと、私はイチローがあまり好きではなかった。大変な努力と鍛錬によって、スーパースターの座を獲得したことは間違いないが、言動が生意気な上に、大金持ちになってからもドリンク剤などのテレビCMに出ていることが気に食わなかった。

 ファンあってのプロ野球選手なのに、何様だと思っているのだという、不快感すら持っていた。

 ところが、眼にいっぱい涙を浮かべて「ボクはアスリートとしてしか生きる術がない。打てなくなったら、それは死ぬことなんだ。後の人生なんて、ボクには残されてない」と、しみじみ語っているではないか。

 これほど思い詰めているスターを、かつて見たことはなかった。友達と喧嘩をして、コテンパンにやっつけられた少年のようである。

 この純粋さに感動した。私たちは、ともすると逃げ道を考えたり、少しでも楽をして生きたいと願ったりする。

 それが「ボク、どうしよう。もうこれでお終いなんだ」と、手放しに自分を曝(さら)け出す。

 自分が築いて来た様な実績や栄光にいささかもこだわらない。プレイヤーを辞めたくなかったという一途な思いに、私はすっかり打たれてしまった。

「笑って死にたい」という言葉の意味が光り輝いている由縁がここにある。

肉体が衰えても諦めない貪欲さが蘇生につながる

 私たちは、笑って死ねたら、それ以上の幸せはない。そのことをもっと眞険に考えなくてはならないのではないか。

 それは何よりも、自分に正直な生き方をどれだけしてきたかと言うことにつきる。妥協する、小狡く立ち回る、他人を貶(おとし)める、損得に拘泥する、安全を求めて裏切る…。胸に手を当てて、考えてみるがいい。

 自分の精神を見殺しにして生きる人生なんて、余りにも悲しい。誰もがそう思って、自らに忠実になることができるならば、そこにこそ生き甲斐があるのではないか。

 限界ギリギリまで挑戦することの大切さを現代人は、忘れているような気がしてならない。

「もう年だから、無理だよ」

 確かに次第に無理が通用しなくなっている。肉体的にも精神的にも、衰えていく。あちこちに不具合が起きる。だが、それでも諦めない貪欲さこそが、私たちを蘇生させてくれるに違いない。

 わかり難いかも知れないが、笑って死ぬというのは、人間の尊厳にも関わっている。プライドをなくしてまで生きたくないという究極の選択でもある。

 イチローは、自宅に大きなトレーニング・ルームを持っていて、引退後も身体を鍛えている。生きている限り、それを続けるつもりらしい。

 引退後のアスリートが太ったり、早逝したりする例は枚挙に暇がない。自己管理を怠った結果だろうけれど、私たち普通人にも日常生活の中で、心身共に弛(たる)みや緩みを許容しているに違いない。

 笑って死ぬためにには、やっぱり健康に留意する必要はありそうである。ここは偉そうなことは言えない。私は不摂生そのものなのだ。

 笑って死ぬには、日頃のトレーニングをやるしかないのか。それにしてもエイプリル・フールに元号は発表されたなんて、笑えるよね。

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矢崎泰久(やざきやすひさ)

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1933年、東京生まれ。フリージャーナリスト。新聞記者を経て『話の特集』を創刊。30年にわたり編集長を務める。テレビ、ラジオの世界でもプロデューサーとしても活躍。永六輔氏、中山千夏らと開講した「学校ごっこ」も話題に。現在も『週刊金曜日』などで雑誌に連載をもつ傍ら、「ジャーナリズムの歴史を考える」をテーマにした「泰久塾」を開き、若手編集者などに教えている。著書に『永六輔の伝言 僕が愛した「芸と反骨」 』『「話の特集」と仲間たち』『口きかん―わが心の菊池寛』『句々快々―「話の特集句会」交遊録』『人生は喜劇だ』『あの人がいた』最新刊に中山千夏さんとの共著『いりにこち』(琉球新報)など。

撮影:小山茜(こやまあかね)

写真家。国内外で幅広く活躍。海外では、『芸術創造賞』『造形芸術文化賞』(いずれもモナコ文化庁授与)など多数の賞を受賞。「常識にとらわれないやり方」をモットーに多岐にわたる撮影活動を行っている。

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この記事へのみんなのコメント

  • イチロウ

    生きている者は、死ぬ時に笑えるでしょうか? 私は、出来ない、と思います。 否、してはならない、と思います。 そもそも我が身に宿る魂は、我が身があればこそこの世にある、と思います。 我が身と魂は、一蓮托生の関係なのです。 両者は死に依って滅びます。 それを両者が笑えるでしょうか? 私には絶対に出来ないこと、と思います。 生きているものが死を迎える時には、生きようとするので自然です。 例えば、我が家の長男猫は、死を前にしても生きようとしました。 死を目前にして胃の中のものを全て、私にはかからないように自らの傍に吐き、飼い主である私の眼を真っすぐに見て息を引き取りました。 息を引き取っても両目は私を見たままでしたので、何度も瞼を閉じましたが、その度に両目を開いたので、未だ息があるのか、と名前を何度も呼びました。 抱いた体が硬直し始めたので始めて、亡くなったのだ、と自分に言い聞かせた程でした。   猫とも思えない最後でした。 19年と5カ月を共に生きた愛猫は、飼い主の私に生きるとは何か、死ぬとは何か、を教えてくれた、と思います。  二度とないこの世を去るにあたり最後まで生きる、と努めた愛猫のように生きたい、と思います。

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