兄がボケました~若年性認知症の家族との暮らし【第188回 うまい話に飛びついてしまった話】
どんな人にも、思いも寄らぬ出来事は起こりますが、若年性認知症の兄と暮らすライターのツガエマナミコさんは、とりわけ、アクシデントに見舞われる機会が多いようです。そんなマナミコさんが兄との日常と複雑な心中を綴る連載エッセイ、今回は、自宅マンションに業者さんがやってきたお話です。
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わが家のご主人って誰?
今日は、兄が便座の蓋の上から用を足してしまい、トイレの床をお尿さまだらけにしてくれました。
わたくしが便座の蓋を上げておくのを忘れてしまったようです。自分もトイレに行きたかったのに、ドアを開けたらビショビショで掃除しなければ中に入れないという悲劇。いや~、マイトイレがあればいいなと心の底から思いました。よくみれば廊下にスリッパ跡がいくつかあり、兄のスリッパの裏はお尿さまで濡れ、そのスリッパですでに家じゅうを歩き回ったことがわかりました。けれど、リビングや廊下の床掃除をする気力が残っておりません。明日頑張ろうと思います。
先日、マンション全戸にケーブルテレビの信号レベル検査とやらが入りまして、業者の方が我が家にやってまいりました。検査は3分もしないうちに終わったのですが、業者の方に「このマンションの光回線、じつは光になってないって知ってました?」と切り出され、話を聞くと築16年越えのマンションだからシステム的にあまり高速回線にはなっていないとのこと。
「でもうちならテレビのケーブルを通すので確実に今より高速になりますよ。今、光回線使用料はおいくらですか?」と始まり、ズルズルと話を聞いていくうちに「じゃ、お願いします」と乗り換える契約までしてしまいました。
「それでは明後日工事の者が参りますのでよろしくお願いします」と業者の方は笑顔でお帰りになりました。わたくしもそのときは「これで安くなるし、早くなる。いいチャンスに巡り合った」と納得していたのです。でも工事前日の夜になって「本当にこれを進めて大丈夫だろうか?」と不安になりました。
乗り換えるにしても、急に降って湧いた話にその場で契約してしまうなんて、あまりに軽はずみではありませんか。きちんと比較検討し、会社のことも調べたほうがいいに決まっております。そう反省し、朝一番でキャンセルの電話をすることを心に決めてベッドに入りました。
それでも「これも何かのご縁だから、いったんやってみてもいいかな」という気持ちとのせめぎあいは続きました。「なんでですか?どうしてキャンセルするんですか?」と攻め立てられたら嫌だなとビビる気持ちもなくはありませんでした。でも朝にはなんとか自分に折り合いをつけて、キャンセルの電話を入れたのです。オペレーターのお姉さまは意外なほどあっさりとしていらっしゃり「キャンセルですね。わかりました」とご快諾。契約内容をしっかりと確かめて「こちらの契約書を破棄しますので、お手持ちの契約書も破棄してください」と言われてホッ。もう即決するのはやめようと神に誓いました。
お年寄りが悪徳セールスマンに騙されるニュースを聞くたびに「なんでその場で飛びついちゃうのかな。2~3日考えさせてくださいって言わなきゃ」と野次っておりましたのに、わたくしも歳を取ったものです。
4年前に北海道から上京したという若き青年の懸命な姿と、デジタルや料金の複雑な仕組みが相まって、だんだん思考がロックされて「ええい、面倒だ」と契約書にサインをしてしまったのです。愚かでした。
悪い話ではなかったと思います。もしかするとわたくしは良い条件でより良い通信環境が手に入る絶好のチャンスを逃したのかもしれません。それでもキャンセルして本当に良かったと思っております。
それはそれとして、ケーブルテレビの業者の青年は、わたくしと兄を夫婦だと思い込み、わたくしのことを「奥さん」と呼び続けておりました。「まぁ、そう思うよね」と思い、訂正しなかったのですが、兄に向かって「ご主人は~」と言ったのを聞いて急に拒否反応が起こり、「ご主人じゃないんです。兄妹なんで」と訂正してしまいました。
「奥さん」は許せても「ご主人」は許せなかったツガエでございます。
文/ツガエマナミコ
職業ライター。女性59才。両親と独身の兄妹が、8年前にそれぞれの住処を処分して再集合。再び家族でマンション生活を始めたが父が死去、母の認知症が進み、兄妹で介護をしながら暮らしていたが、母も死去。そのころ、兄の若年性認知症がわかる(当時57才、現64才)。通院しながら仕事を続けてきた兄だったが、ついに退職し隠居暮らしを開始。病院への付き添いは筆者。
イラスト/なとみみわ