【連載エッセイ】介護という旅の途中に「第25回 変化のとき」
写真家でハバーリストとしても活躍する飯田裕子さんによるフォトエッセイ。父亡き後に認知症を発症した母との暮らしや、親の介護をする娘の気持ちのあれこれをリアルタイムに写真とともに綴ります。
一度は、母が高齢者施設に入居し、父母が暮らしてきた勝浦の家を手放すことを決めたのですが、コロナ禍で面会も叶わぬ日々を経て、母を施設から勝浦の自宅に戻すことにした飯田さん。勝浦で一人暮らしになった母のところへ通う日々が再び始まりました。そんな中、飯田さんは一つの大きな決断をします。
忙しかった夏が過ぎ…
蝉の声に秋の虫の声が混ざり月も明るい夜になってきた。
止まらないコロナウイルスの蔓延数の増加。しかしその不安を感じる隙間もないほど私にとって、忙し過ぎる夏となった。
房総半島の先端3箇所での同時多発写真展を開催したのは、初めての試みだった。コロナの影響ももちろんあり、来客数は多く望めなかったが、自分にとっては作品をまとめるいい機会となった。
さらに、写真展が始まる前に、私は暮らしの上でも重大決心をした。
長年暮らしてきた内房のマンションを売却し、いよいよ母と勝浦で同居すると決めたのだ。この決断の背中を押してくれた一つの理由には、前回に書いたIさんへの時々部屋レンタルの体験があったからだった。
この数年、部屋にいても母のことが気になり落ち着かない。しかし、愛犬との思い出も含めて愛着のある土地や部屋と別れる決意もなかなかし難い、と感じていたのだが、友人に短期でも部屋を貸すことによって自分の中の気持ちが変わっていった。
「もし、今の私以上にこの部屋を必要とする人がいれば」という思いと、「新しい変化、旅立ちが自分の人生に必要なのではないか?」という思いだった。
母も元気だった70代、80代はあっという間に過ぎ、そして90歳となった今、日々の日常は過ごせはするが、もう自力で決断したり、旅をしたりする能力は薄れている。
今までの私は、ロケだ何だと出かけてばかりの仕事だったが、少し腰を据えて、まとめる作業をする必要も出てきた。老後のビジョンも含め、今、自分に必要なことと、今後必要でなくなることを選んでいくうちに、勝浦の家を受け継ぎ自分と母の場所としても良いという結論に至ったのだった。
今の私ならきっと変化できる。
思えば、昨年の夏に母を施設から勝浦の家に戻すことにし、その後の私の1年は内房から外房の勝浦の家へ1時間半の道のりを行き来する日々だった。コロナ禍、非常事態宣言の発令も続き、自分の仕事のスタンスも変化していった。
母に「私ね、勝浦でママと暮らすことにするよ」と伝えた。すると、「そのほうがいいね、いつも遠過ぎて大変だし。私は施設に行くの?」と聞くので「施設に100%ずっと入るのは今後は多分ないと思う。時々ショートステイでおしゃべりを楽しんだり、そういう感じでどう?」と私。「はいはい、それでいいわよ私は」と母。
早速マンションの売却を決めたとたん
ケアマネジャーさんもショートステイでお世話になる施設にいる若い女性に担当を変更し、勝浦をベースする準備を始め、いよいよ不動産屋さんに私が住むマンション売却の相談をした。
しかし答えは「この角部屋はなかなか買い手がつかないで有名な物件ですから、売却まで時間がかかるかもしれません」とのことだった。(田舎の物件にしては管理費が高いことが原因)
「買い手がみつかるのはご縁のなせるもの」と、呑気に構えていたのだが、なんとウエブサイトに掲載した翌日「見学希望」との話があった。そして、その2日後には部屋の内覧にいらっしゃるという。
コロナ禍による変化が住まいにも起きている。都心の家と田舎の家。2拠点、多拠点、シェアホームなどのニーズに千葉県の房総半島も入ってきたという事情もあるのだと思う。
心の準備はできたつもりでいたが、あまりの急展開に内心、戸惑いつつも急いで部屋を整えた。
「もう完全に自分一人でいられる部屋がなくなるんだ」…。正直これには未練が残った。
不動産屋さんが、内覧を終えたお客様を送った後にやってきた。
「あの、つまり結果から申しあげますと、成立いたしました」
なんだかキツネにつままれたような表情で「いやあ、すごいご縁ですね。まずこのバリアフリーのスロープを大変気にいられて…」と、汗を拭いている。
マンションの購入を決めたご家族のこと
その即決ぶりに「お決めになったのはどんなかたなのですか?」と私が聞くと、
「今日はお母様がご自宅のあるところからお一人でこられました。ご主人はお元気でテニスもされたりするそうです。ただ息子さんに重度の障がいがあり車椅子を利用しているそうです。息子さんは東京で一人暮らしをされていて、この部屋はご家族で別荘的に使うとおっしゃっています」
実は、この新オーナーの息子さん、パラリンピックのボランティアをなさっていた。新聞にも取り上げられた息子さんは、笑顔の写真が穏やかで優しい雰囲気だ。
先天性の病気で全身の骨が弱く、車椅子の暮らしを余儀なくされているというが、一人で車を運転し、福祉のお仕事をなさっている。パラリンピックは過去3回の観戦をし、その体験を元に東京大会を支える一人としてエントリーしたのだという。
昨年には心待ちにしていた大会を前に脳出血で入院というハプニングがあり、一時は寝たきりとなった。しかしそこからお母様の支えとリハビリで今日の状態までお元気になられた。自分がもし同じ立場だったらと想像すると、頭が下がる。
お母様は、今までケアマネのお仕事をされてきていた、まさに介護のプロだ。
ご自身も股関節を患いながら息子さんを支え、いつも笑顔でいらっしゃる。そして何よりこの部屋での時間を心より楽しみにしておられるようだった。
私の写真展にも足を運んでくださったので、お母様とは少しお話しをしたが、この笑顔の裏には数えきれない切なさがあったことを伺った。
「今はテレビでも、障がいがある人たちが隠すことなく堂々としている時代になりました。でも、ここまでの道のりは本当に長く、ようやく…」と言葉を詰まらせていた。
想像を絶する悔しい思いがあったのだと拝察するが、その悔しさが未来に向かう光によって浄化され、誰もが敬われる時代になることを願う気持ちが強くなった。そして、もしかしたら知らず知らずのうちに障がいのある方々を傷つけていたこともあったかもしれないと自分自身を省みた。
そんな、不思議なご縁があり、愛着ある部屋をお譲りすることで私自身も新たな一歩を気持ちよく踏み出すことができたのだった。
前に進むしかない
勝浦の夜空の月を眺め、虫の音を母と聴きながら想う。
「人生は旅のごとく、この角を曲がったらどんな景色が現れるかわからないものだ」と。
前に進むしかない。そう、人生も時間も、決して後戻りはできないから。
母はこの夏はすこぶる元気で、気持ちも安定している。もちろん記憶力の低下や難聴は進んでいる。
母は夏の初めに種を蒔いた朝顔が花開くのを、毎朝楽しみにしている。庭仕事はかつてはほぼ父の役目だったが、母も今は植物に触れることが楽しみのようだ。
そして、朝、夕に庭にキョンも現れる。
母はカーテンの陰に隠れ「ほら!鹿の赤ちゃんが来てる」とひそひそ声で言うが、キョンはほぼ逃げないどころか、近くに行っても驚きもしない。
実は、キョンは今、房総の農家で害獣とされている。キョンは私が小学生の頃に存在したレクリエーション施設で飼われていた。それが閉園と共に脱走したらしく、野生化し今では厄介者になってしまったというわけだ。動物の身になってみれば、人の都合で大切にされたり邪魔にされたり、と迷惑なことかもしれない。
我が家にとっては、愛犬のようなペットではないが、イノシシのように獰猛ではないキョンが庭先に姿を見せてくれることは癒しになっている。
さらに母は、パンくずや米のカスを「鳥にあげる」と言っては山際に蒔く。すると、スズメが大群を成して飛んでくるようになったのには驚いた。鳥の世界にも口コミがあるのだろう。いっときは50羽くらい飛来していたが、稲穂が実るシーズンとなり、めっきり来なくなり、母は少し寂しいようだ。
ショートステイも、ひと月のうち数日行くペースで続けている。
「明日からショートステイだよ、荷物は私がまとめるから、何もしないでいいからね」私が、そう言ってもまた、レース編みを巾着袋にしまい込んでしまう。そして、施設から戻ると、「レースをテーブルの上に置いておいたらね、取られたのよ」と、自分がプレゼントしたことも忘れて、相変わらず被害者顔になってしまう。しっかりしている時と、そうでない時、そのまだらさが掴みきれないが、それでもだんだんと、私は苛立つことがなくなってきた。
「これ、ニラの花よ。綺麗だねえ、完璧な姿をして」と、感動しきりの母。
美しいもの、自然の空の色、海の色、そんなことに触れる幸福があれば今はいい。非常事態宣言の世の中にあって、辺境の我が家の時間は私たちの時。テレビを消したら鈴虫の声だけになった。
(つづく)
写真・文/飯田裕子(いいだ・ゆうこ)
写真家・ハーバリスト。1960年東京生まれ、船橋育ち。現在は南房総を拠点に複数の地で暮らす。雑誌の取材などで、全国、世界各地を撮影して巡る。写真展「楽園創生」(京都ロンドクレアント)、「Bula Fiji」(フジフイルムフォトサロン)などを開催。近年は撮影と並行し、ハーバリストとしても活動中。HP:https://yukoiida.com/