唐沢寿明主演ドラマ『ナポレオンの村』はおとぎ話か 東京五輪を経験した今、考察する
TBS「日曜劇場」をさまざまなテーマで考察する隔週連載。今回取り上げるのは『ナポレオンの村』が放送された2015年は、新国立競技場建設の白紙撤回、エンブレム盗用疑惑など「東京オリンピック2020」開催に陰りを感じ始めた年である。唐沢寿明演じる主人公は東京都の職員。まだコロナの脅威こそないが、理不尽な権力に立ち向かい、計画を着実に進めていく姿に、今こそ励まされるはず。昭和史に詳しく、ドラマを愛するライター・近藤正高が考察します。
せめてドラマのなかだけでも
先日閉幕した東京五輪は、幕が開くギリギリまで騒動があいついだ。そもそもの発端は、メインスタジアムとなる新国立競技場の建設をめぐるゴタゴタにさかのぼる。新国立競技場のデザインは当初、国際コンペで建築家のザハ・ハディド氏の案に決まったものの、その後、整備費が計画を大幅に上回ることが判明し、国内で強い反対の声が上がった。ついには当時の安倍首相が「白紙に戻す」と表明し、改めてデザインを選び直す事態にいたる。
今回紹介する『ナポレオンの村』は、首相が白紙撤回を表明した2日後、2015年7月19日に初回が放送された。その冒頭では何と、東京都の職員だった主人公の浅井栄治(唐沢寿明)が、東京五輪に向けて未来型の新スタジアムを軸にしたプランを大々的に発表し、その場に集まった各国の人々から喝采を浴びる。撮影時にはすでに国立競技場をめぐる騒動は起きていたはずだが、いきなりこうした場面で始まったのは、せめてドラマのなかだけでも着実に計画を進めてくれる人物がいてほしいという、このとき誰もが思っていたであろうことを反映したのかもしれない。
ちなみに初回で画面に映っていた東京五輪のエンブレム(桜のリースをかたどったロゴ)は招致時に使われたもので、放送直後の2015年7月24日には、大会本番用のエンブレムが発表されている。しかしこれも盗作疑惑が持ち上がって、最終的に撤回されたことは周知のとおりだ。きっと『ナポレオンの村』の世界では、スタジアムもエンブレムも炎上せずに、優秀な役人のリードによって、五輪開催の準備は滞りなく進められたのではないか……。このドラマには、そんなふうに思わせるような、現実とはちょっと違う世界を舞台にした“現代のおとぎ話”ともいうべき趣きがある。
『ナポレオンの村』はこんなお話
もっとも、本作で東京五輪が出てくるのは冒頭の場面だけ。主人公の浅井は、例のプランを発表すると、五輪開催への道筋はついたとしてさっさと次の行動に移る。それが、このドラマの本題となる東京都下にある神楽村(もちろん架空の村である)の建て直しだ。
星河市という市にある神楽村は、自然は豊かだが、若い世代はほとんどおらず、高齢化した住民は農業などで細々と生計を立てていた。このまま放っておけばいずれ消滅してしまう、いわゆる限界集落だ。市長の福本(沢村一樹)は、市の改革を進めるなかで、財政上負担となっていたこの村を廃村するつもりでいた。そこへ都庁から市役所に移って来た浅井が、村を建て直すと言い出したのだから穏やかではない。何かにつけてナポレオンの名言を口にしては自信満々の彼を市長は目の敵にし、農商工課の岬由香里(麻生久美子)を監視役につけたりする。
浅井の敵は市長ばかりではなかった。農商工課の職員も、肝心の村人たちも、これまで市の主導でB級グルメや農村ツアーなどそれなりに村のテコ入れを図ってきたもののことごとく失敗しており、すっかりやる気を失っていた。浅井が最初の仕事として、村祭りを準備するにあたっても(予算はわずか1万円!)、費用を村人たちから募ろうと各家を回るも追い返されてしまう。しかし、彼はけっしてめげない。村に住む登美子(大谷直子)が見事な和紙をつくるのを見て、和紙でランタンをつくって夜空に飛ばすイベントを企画する。それからというもの村人たちも、また監視役の岬も、浅井に仕向けられるように祭りの準備に力を入れていった。
紆余曲折はあったが、ランタンのイベントは成功を収める。村人たちや岬もそれ以来、浅井に協力的になっていく。その後も浅井は住民たちの力を引き出しながら、ブランド米「神楽米」、滝つぼレストラン、農産物の直売所、婚活ツアー、廃坑を活用したアドベンチャーランドなどさまざまな企画を実現させ、一躍全国に注目されるようになる。しかし、こうした手柄を市長や課長に平気で譲り渡すなど、その意図がいまひとつつかめない。一方で市長の福本は、浅井が成功を収めるたび廃村計画の着手が遠のき、焦りを募らせる。じつは彼の裏ではある人物が糸を引いていることも徐々にあきらかにされていく。
イッセー尾形、星田英利……味わい深い出演陣
子供たちが夏休み期間中の放送とあってか、親子の関係をテーマにしたエピソードもたびたび描かれた。第2話では、父親(林泰文)と娘2人が、村の山奥にある病院で結核のため療養中の母親(菅野美穂)の近くに住もうと引っ越してくる。まるで某国民的アニメ映画を思わせる設定だが、娘のうち姉のほうは15歳と、あのアニメの姉よりはやや年上で、しかも村人たちに対し反抗的な態度をとっていた点が異なる(もちろん、太鼓腹のお化けも出てこない)。その姉・ヒロミ(山口まゆ)は、母親においしい米でつくったおかゆを食べさせてあげたいという思いをかなえるため、村人たちの手を借りるうち、だんだんこの村になじんでいった。劇中では、父娘が母親を見舞った際、感染防止のためガラス窓越しに携帯電話で会話する描写があったが、いま見ると、コロナ感染下の病人と家族の関係を予見したかのようでもある。
出演陣も、味わい深い面々がそろった。たとえば、村の地主で神主の菰田(こもだ)の、飄々として油断ならないキャラクターをイッセー尾形が演じ、まさにハマり役だった。村人ではまた、村の青年団のリーダー格である材木屋の源さんを、「ほっしゃん。」から改名して俳優業にもますます本腰を入れ出した頃の星田英利が好演している。ちなみに村のおばちゃんの一人、タミさんを演じているのは、『3年B組金八先生』で第1シリーズより長らく国井先生役を務めた茅島成美だ。
浅井の在籍する農商工課の職員役には、麻生久美子のほか、ムロツヨシ、岩松了、浜野謙太、シェイクスピア劇で活躍する千賀由紀子、若手の水谷果穂と多彩なキャストがそろった。麻生と岩松は往年のカルトドラマ『時効警察』で共演したのをはじめ、岩松の演出する舞台や映画に麻生が出演するなど縁が深い。本作では麻生演じる岬が、岩松演じるベテラン職員の喜多に相談を持ちかけるシーンもたびたび出てくるが、両者の関係を知っているとより味わい深く見られる。
ムロツヨシは、当連載で前々回にとりあげた『空飛ぶ広報室』では航空自衛隊の広報室を支えるベテラン広報官という役どころで、見せ場となる回もあった。本作でも、当初は市長の腰ぎんちゃくとして主人公の邪魔をする嫌な役だと思っていたら、後半でしっかりと見せ場、泣かせどころが用意されていた。どんなドラマも盛り上げてくれる俳優として、ムロが重宝されるようになったのはちょうどこの頃だろう。
唐沢寿明の役どころ
唐沢寿明にとって『ナポレオンの村』は、日曜劇場では前年の2014年の『ルーズヴェルト・ゲーム』以来の主演作、しかも前作で精密機器メーカーの再建を託された社長を演じたのに続き、今回も再生請負人的な役どころであった。そういえば、唐沢は出世作『愛という名のもとに』(1992年)では、政治家である父親の秘書を務めながら、最後の最後で、ゴルフ場建設に絡む汚職に関与した父を告発する青年を演じた。ゴルフ場の建設予定地に行って反対派の声も聞いた上で、正義を貫こうとするこのときの役は、『ナポレオンの村』での公務員役とも重なる。なお、『愛という名のもとに』で高校生役だった山本耕史(現実の年齢では当時まだ中学生)は、本作では、浅井のよきアドバイザーとして辣腕を振るう経営コンサルタントを演じている。
このほか、毎回のゲストも、大谷直子、梅沢富美男、筧利夫、時代劇『逃亡者おりん』で知られる青山倫子などなかなかに渋い。このうち梅沢はテレビでは歯に衣着せぬコメンテーターなどとしていまやおなじみだが、本作では本業の俳優として、寡黙で不器用な村のレストランのシェフを演じている。筧の登場する第5話では、『ウルトラマン』シリーズやラジオのレポーターとしてTBSと関係の深い毒蝮三太夫が、村の山の地権者役で一瞬出てくるのも見逃せない。
『半沢直樹』とはまったく違う
さて、先ほど書いたように、現代のおとぎ話的な趣きで進んできた本作だが、終盤へ来て、いきなり“現実”に直面する。桜庭という内閣府の役人(西村雅彦=現・まさ彦)がしゃしゃり出てきて、神楽村をモデルケースにマニュアルをつくり、全国に多数ある限界集落の再生を一気に推し進めようとしたのだ。これに浅井は、「人をマニュアル通りに変えることはできない。環境で人が変わるんじゃない。人が環境を変えるんです」と反論するが、桜庭には理解してもらえない。
そうこうしているあいだに桜庭は国から補助金の確約も得ないうちに、神楽村の道路の整備や直売所の拡張工事などに着手し、村人たちを期待させる。浅井はそのやり方に不安を抱くが、案の定、国が予算を大幅に削減し、補助金が下りなくなる。最後の最後にして最大の危機を、浅井が乗り切るさまが見ものだ。
このドラマで浅井は、市長の福本などと敵対こそすれ、彼はけっして相手を完膚なきまでに論破したり、屈服させたりはしない。そうではなく、時間をかけてでも目に見える実績をつくり、認めさせた上で相手を味方に取り込むというのが彼のやり方だ。その意味では、同じく日曜劇場で放送され、土下座が話題を呼んだ『半沢直樹』とはまったく違う。
亀裂を修復していく主人公に学ぶ
思えば、平成からこのかた30年余り、国や地方自治体で改革が叫ばれるなかで、いわゆる改革派の政治家が敵対する勢力を「抵抗勢力」などと呼び、自分たちの正当性を訴える風潮が強まった。また、日本だけでなくほかの国でも、一国のリーダーが自分と主義主張の違う人々をことさらに敵視し、支持者を煽ることさえ行われるようになる。それによって社会の分断が進んだことは否めない。今回の東京五輪をめぐっても、開催すべきか否か世論は大きく分かれた。この数十年をかけて生じた亀裂を修復していくことは、今後の私たちの大きな課題だろう。そのとき、半沢直樹のように相手を屈服させるのではなく、相手と理解し合い、手を結ぶ浅井栄治のやり方こそ手本になるのではないだろうか。
文/近藤正高 (こんどう・ まさたか)
ライター。1976年生まれ。ドラマを見ながら物語の背景などを深読みするのが大好き。著書に『タモリと戦後ニッポン』『ビートたけしと北野武』(いずれも講談社現代新書)などがある。