兄がボケました~若年性認知症の家族との暮らし「第78回 担当医にフラれました」
若年性認知症を患う兄と妹でライターのツガエマナミコさん。両親は他界し、現在は兄妹2人で暮らしている。認知症の症状が進み、少しずつできないことが増えてきた兄。通院の付き添いもツガエさんの役割だ。そんな中、長年、兄を診ていた医師がこのたび病院を変わることになり…。
「明るく、時にシュールに」、でも前向きに認知症を考えます。
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5年間診てくれた先生とお別れ
先日、兄の診察日で病院に行くと「いや~じつはですね、急なことなんですけれども、ボク、来月から前の病院に戻ることになったんですよ。もう初診しか診ないポジションになるので、一緒に病院を移ってもボクはツガエさんを診られないんですけど、どうします?この病院の継続でいいですか?」と言われました。
思い起こせば3年半前、「ボク病院移ることになったんです。ツガエさんはどうします?」と言われて「じゃ、先生と一緒に」と今の病院にくっついてきた兄妹です。先生に特別な思い入れはなかったものの、通算5年近くのお付き合いになり安心しておりましたのに、今回は実質「さよなら」のご挨拶でございました。
前の病院は大学病院で、今の病院よりも待ち時間が長く、自宅からも若干遠い。なにより慣れ親しんだ先生に診ていただけないなら、一緒に移る理由などありません。
「この病院の継続でお願いします」
そう言いながら、わたくしは知らず知らず不機嫌になっておりました。なんとなく見捨てられた気がしたのです。恋愛で言えば「元カノとよりが戻ったから」という理由でフラれたようなもの。
「へぇ、戻るんですか。病院界でもそんなことがあるんですね」と大袈裟に驚くのが精いっぱいで、長年の御礼も言わず、いつもの「ありがとうございました」で退室してきてしまいました。
2か月に1回、「どうですか?何か変わったことはありませんか?」という決まり切った始まりと、「じゃ、いつものお薬でいいですね」で終わってしまう簡単な診察の連続でした。人の良さそうなはにかんだ笑顔と遠慮がちな問診だけで、これと言ったアドバイスやアイデアをくれるわけでもありませんでした。もとより認知症は現代医学では治らない病気で、医師は効くような効かないような薬を出す以外やることがないのでしょう。ブチブチ……
なんだかフラれた腹癒せに彼氏の小者っぷりを言いふらしている品のない小娘のようになってしまいました。
兄は「いや~、あちこち大変ですね先生も。長い間お世話になりました」とわたくしよりも数段まともな挨拶をしておりましたっけ。
それを聞いてすこし恥ずかしくなりましたが、「もう会わないからいいや」と投げやりに歩きだしてしまうほど、そのときのわたくしはフラれた女と化しておりました。
今は気持ちを切り替えて「先生が変われば、もしかすると何かが変わるかもしれない」と淡い期待をしております。
それにしても、あの病院のあの待合室には、1人で来ている患者さんが多いことにビックリいたします。みなさん心や精神に病を持った人のはずですが、受付でちゃんと診察券や保険証を出し、順番が来れば立ち上がって診察室に向かう人ばかり。兄のように自分の番号を呼ばれてもわからない人など1人もいないのです。
兄は目で見ている「459」という数字と「よんひゃくごじゅうきゅう番の方」と読まれる番号が一致していないようです。だから番号は凝視しているのに自分が呼ばれているかどうかが判断できないのです。わたくしがフランス語で番号を読み上げられてもわからないのと、きっと原理は同じでしょう。
近頃の兄は、わたくしが新聞の日付を指さして「今日は何月何日?」と訊いても、どの数字を答えればいいのか悩んでしまう人になりました。この1年でグ~ンと脳の萎縮が進んでしまったように思います。
「もう少し生活に刺激があるといいですね」
これが5年間お世話になった先生の、最後の診察で言われた言葉でございます。ありがたく受け止め、この先を生きていこうと思ったツガエでございます。
文/ツガエマナミコ
職業ライター。女性57才。両親と独身の兄妹が、6年前にそれぞれの住処を処分して再集合。再び家族でマンション生活を始めたが父が死去、母の認知症が進み、兄妹で介護をしながら暮らしていたが、母も死去。そのころ、兄の若年性認知症がわかる(当時57才、現62才)。通院しながら仕事を続けてきた兄だったが、ついに退職し隠居暮らしを開始。病院への付き添いは筆者。
イラスト/なとみみわ