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連載

シニア特急~初老の歴史家、ウェールズを征く~<32>【連載 エッセイ】

 長年、イギリス史を研究してきた、歴史家でエッセイストの桜井俊彰氏は、60代半ばにして、自身にとって「行かなければいけない場所」であったウェールズへの旅に出かけます。

 桜井さんのウェールズ旅の軌跡を、歴史の解説とともに綴った、新しいカタチの「歴史エッセイ」で若いときには気づかない発見や感動を…。

 シニア世代だからこそ得られる喜びと教養を堪能してください。

 さあ、『シニア特急』の旅をご一緒しましょう!

【前回までのあらすじ】

 ウェールズの大聖堂「セント・デイヴィッズ」にゆかりの深い『ジェラルド・オブ・ウェールズ』の本を日本人向けに出版した桜井氏は、「セント・デイヴィッズ」を訪れ、その著作を寄贈することを夢見ていた。

 そして、ついに念願が叶い、ウェールズへの旅へ出発する。

 飛行機、列車、バスを乗り継ぎ、無事に目的地である大聖堂「セント・デイヴィッズ」のある街、セント・デイヴィッズに到着した。

 宿はB&Bの「Ty Helyg(ティー・へリグ)」。早速、訪れた神聖なる大聖堂の中へ入り、ついにジェラルド・オブ・ウェールズの石棺に出合う!また、思いがけず、テューダー朝の始祖である国王ヘンリー7世の父、エドモンド・テューダーの石棺にも巡り合う。

 ジェラルドについて記した自著を大聖堂「セント・デイヴィッズ」へ献上したいという思いを果たすのだった。

 翌日は、バスを乗り継ぎ、次の目的地、ペンブロークに向かう。

 予約していた宿「Old Kings Arms Hotel」は、まるで絵本に出てくるような外観。チェックイン後は、ペンブローク城の城内巡りを堪能する。夕食時には日本の俳優、笹野高史似のホテル支配人から、彼の友人が書いた日本海軍についてのレポート内容について、質問を受け、日本は、東郷平八郎をスパイにして、イギリスの船艦建造技術を盗んだのではないかという説を聞かされた。

 スパイ説が、間違いであること、レポートには多くの誤解も含まれていることを理解してもらったが、英国人が日本人に対して抱いている感情の一部を目の当たりにし、ウェールズも英国の一部であるのだという認識を新たにしたのだった。

「Old Kings Arms Hotel」で一夜を過ごし、今日はこれから、来た道を遡り、ペンブロークからカーディフへと向かう。まずは、ハーバーフォードウェストまでバスでの移動だ。

→前回(31回)の記事を読む

 * * *

IX だから、私は電車で眠らない、眠れない(3)

(2017/4/12 ペンブローク→ハーバーフォードウェスト→カーディフ)

●気前のいいおねえさん

 案の定、10時52分にペンブローク・カッスルのバス停に来るはずの「348」のバスは、時刻通り来なかった。ただし遅れたのではない。早く来たのだ。私がバス停に着いたのとほとんど同時、10時40分に、である。

 早く来るのは遅れるよりたちが悪い。遅れる分にはイライラしても乗り損なうことはない。やっぱり余裕をもって早く来て正解だった。結果的に待ち時間ゼロで乗れたのはラッキーではあったが、でも私はまだ不安だったので、このバスが本当にハーバーフォードウェスト・バスステーションまで行くのかどうか、運転手に確認をとってから乗り込んだのはもちろんである。例によって運転手のすぐ斜め後ろの席に陣取って。

 バスは昨日来た道を今度は反対方向へ、相変わらずすごいスピードでガタガタとひどい音を出しながら走っていく。

 面白いもので、私は道順と外の風景をほぼ覚えていた。来る時、私なりにペンブローク・カッスルのバス停を見逃さないようにと、つねに窓の外を真剣に眺めていたからだ。

「348」のバスは、今回はバス会社の営業所に寄ってドライバーの交代をすることもなく、一気にハーバーフォードウェスト・バスステーションまで行った。

 だから来た時より乗っている時間はかなり短いように感じた。時計を見る。11時20分である。

 ここハーバーフォードウェストで、私は電車が出るまでの2時間、何とかしないといけない。バスを降りスーツケースを転がしながらとりあえず駅のほうへと向かい始めたが、どこか時間をつぶすところを見つけたい私は、そういえばと思い出す。

 確かホテルがあった。この道路がぐちゃぐちゃに入り組んだバスステーション界隈の、三叉路だか四叉路だかの交差点の角にそこそこ目立つ白いホテルがあった。一昨日と昨日、バスの窓から見たので覚えている。そこでコーヒーでも飲もうと進む私の目の前に、その「カントリーホテル」はあった。

 玄関脇に、1階のパブのランチメニューが黒いボードにカラフルなチョークで書かれて置かれている。玄関ドアは開けっ放しだったので私はそのまま中に入る。

 右手にホテルのフロントがあるが誰もおらず、左側のパブになっている広いフロアに入る。パブのカウンターにはちょっと太めの、赤毛の感じのいいおねえさんがいて、私を見るとニコッと微笑み、”Any table , please”と優しく言ってくれた。

 軽く右手を挙げておねえさんの善意に応えると、私は入口に近いテーブルに荷物を置き、それからおねえさんのそばに行ってコーヒーを注文した。やがて、ちょっとびっくりするような大きなカップになみなみと入ったコーヒーを、おねえさんは持って来てくれた。気前がいいのである。

●イギリスの町は本当に人に優しいか

 落ち着いたところで、私は今朝「Old Kings Arms Hotel」のベッドの上で書いていた旅行メモの続きを、小さなノートに書き始める。

 記録は、後で書けば書くほど鮮度が落ちる。人の記憶自体は、案外長い間とどまっているものだが、感動は時がたつほど失われる。感じたことを、感じた時の言葉で書く。そうして残したものは、後で読み直してもずっと輝いている。時間がなく仕方がない場合も多々あるが、ほんの少しでも、箇条書きでも、殴り書きでも結構。最初のひらめきを、その時の自分の感受性を、時間をおかず残しておきたい。

 メモを書き終えるとメッセンジャー(Facebookの通信ツール)でカミさんとメッセージのやり取りをする。時差は8時間、いま日本は夜の8時くらいだから、連絡をとるにはちょうどいい。

「ナナはどうしてる?」ミニチュアダックスフントのナナ、寂しがってないか?
「ナナはすこぶる元気よー、いつもの調子よー」と、カミさん。

 ちぇっ、ナナめ。お、今夜は娘が来て泊まっていくのか。よし、これで電車の中での暇つぶしはできるな。

 娘を交えて三人でのメッセージのやりとりだと、私は楽しくなる。

 会社員の娘は都内に住んでいるが、こういう情報が入るのも、もちろんこのカントリーホテルにもフリーWi-Fiがあるからだ。

 12時半になった。そろそろホテルを出るか。もっとも、13時23分発の電車に乗るにはまだ1時間ほどある。ここからハーバーフォードウェスト駅まで歩いて10分もあれば御の字だろうから、13時に出てもいいのである。

 でも私は出ることにした。というのも13時からは昼食タイムだから多分店は混んでくる。よってその前に出たいという気があった。イギリスでは午後1時から昼休みをとるのが普通である。日本のように12時からではない。カウンターの中のおねえさんにまた軽く右手を挙げてお礼をし、私はホテルを出て駅へと向かう。

 が、ほんのわずかな距離なのに道がわかりにくい。駅の方向を示す標識類は見当たらず、さらにはあるのかないのかよくわからない道路の歩行者レーン、渡りにくい横断歩道。完全に車優先の道路事情であり、正直、歩行者本位の道づくり、街づくりには少なくとも駅付近、バスステーション付近ではなっていない。

 こういう傾向は、ハーバーフォードウェストに限ったことではない。

 イギリスは、実は驚くほど車優先で街がつくられている。そのことはロンドン在住2年間でしっかり味わった。例えば信号が歩行者のために青になる時間は信じられないほど短い。下手をすると渡り切らないうちに赤になる。

 いや、渡り切らなくてもごく普通に赤になる。そのために大体、道路の真ん中あたりに歩行者のための中継ぎ点という安全地帯が設けられている。

 もっともロンドンは信号を無視して道路を渡る人がめちゃめちゃ多く、歩行者のための青信号の時間をたいして長くしもしてないのは、もしかしたらそのためなのかもしれない。

 日本人みたいな生真面目な人種には、イギリスの道路を渡るのは結構怖いのである。ロンドンに限らずイギリスの都市には緑豊かな広い公園が多く、そのことが何か、都市全体が人間優先の思想でつくられているような気持ちにさせる。しかし、いざ歩くとイギリスの町は案外優しくない。もっともこれは車がたいして好きではない私の意見だが。

●カーディフ経由マンチェスター行き

 それでもGoogleマップのナビゲーションのおかげで、私は何とか迷わずきっちり10分でハーバーフォードウェスト駅に着いた。

「カントリーホテル」からほんのわずかな距離なのに、やれやれだ。

 当たり前だが来た時と同じ駅。でも乗るのは降りたときと違って、向かい側のプラットホームからだな、と思っていたら、駅員に降りたときと同じホームにカーディフ行の電車は来るよと言われた。へえーっ、面白いなと思いながらホームのベンチに腰を掛ける。

 帰りの切符をチェックする。車両(コーチ)はA、席は15Fで、来た時と同じテーブル席の通路側だ。

 飛行機でもそうだが、私は必ず通路側の席を予約する。体が大きい私にはそのほうが楽だし、トイレにも隣の席の人に遠慮なく行ける。車内販売のカートに近いのもいい。窓際のほうが外の景色を楽しめるという人も多いが、狭い車内、どこに座ろうが基本的に外は見られる。私に関しては足を伸ばしやすい通路側が絶対にいい。

 だんだんホームに乗車客が集まってくる。小さな駅の小さなホームが、スーツケースやリュックを持った人たちでそれなりに賑やかになってくるのは何だか楽しい。そうだ、私も旅している1人なのだ、と実感する。

 電車がホームに入ってきた。時間通りだ。この電車の終点はマンチェスターである。私が降りるカーディフはこの電車にとってはほんの通過点。イングランドに入ってさらに北上し、終点の、2大サッカーチームを擁する大都市に至る。

 そのマンチェスターには、かつて私のカミさんが通ったヴェジタリアン料理では世界的権威の学校、コルドンバート(Cordon Vert)がある。確かカミさんはこの料理学校でディプロマを修得した最初の日本人である。

 私たち一家がロンドンにいて、私がUCLの大学院で英国中世史に没頭する間、元エアラインのCAだったカミさんも懸命に料理を勉強した。彼女は英国に特有の制度Further Education(社会人教育)を利用し、そのころ住んでいたロンドン郊外フィンチリーセントラル(Finchely Central)の近くのバーネットカレッジ(Barnet College)でCookeryを学んだ。それを皮切りに様々な料理学校・施設に通った。

 そして、カミさんはついにマンチェスターのコルドンバートに入学申請をして、私たちが日本に帰ってからも折を見てはマンチェスターに行き、足掛け2年で見事ディプロマをとった。

 要するに、私とカミさんの二人の中年が懸命にそれぞれの生き方を探したのがロンドン時代だった。マンチェスター行きの電車を見て、そのことがふと甦る。

 →33回を読む

→このシリーズのバックナンバーを読む

桜井俊彰

桜井俊彰(さくらいとしあき)

1952年生まれ。東京都出身。歴史家、エッセイスト。1975年、國學院大學文学部史学科卒業。広告会社でコピーライターとして雑誌、新聞、CM等の広告制作に長く携わり、その後フリーとして独立。不惑を間近に、英国史の勉学を深めたいという気持ちを抑えがたく、猛烈に英語の勉強を開始。家族を連れて、長州の伊藤博文や井上馨、また夏目漱石らが留学した日本の近代と所縁の深い英国ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の史学科大学院中世学専攻修士課程(M.A.in Medieval Studies)に入学。1997年、同課程を修了。新著は『物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説 』(集英社新書)。他の主なる著書に『消えたイングランド王国 』『イングランド王国と闘った男―ジェラルド・オブ・ウェールズの時代 』『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 』『英語は40歳を過ぎてから―インターネット時代対応』『僕のロンドン―家族みんなで英国留学 奮闘篇』などがある。著者のプロフィール写真の撮影は、著者夫人で料理研究家の桜井昌代さん。

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