《日本最高齢のインフルエンサー》と話題の飯田美代子さん(95才)が明かす戦争体験「東京大空襲の日は生涯忘れることができません」
SNSを活用して発信する注目のシニアインフルエンサーへのインタビューシリーズ。今回は日本最高齢のインフルエンサーとして注目を集める飯田美代子さん(95才)。戦後まもなく女性編集者の草分け的存在であり、和文化を継承する活動に長年携わっている。子供時代に経験した東京大空襲、そして迎えた終戦――激動の半生を振り返る。【Vol.1/全3回】
プロフィール/飯田美代子さん
1930年東京都生まれ。美容業界の雑誌編集を経て、婦人画報社に入社。女性誌やブライダル雑誌の編集に長年携わる。和文化や日本のしきたりについて研究を続け、『和婚 -花嫁衣装&和の結婚式新ルール-』(芸文社)など著書多数。90才のときにSNSを開始し、YouTube、InstagramやTikTok など総フォロワー数は45万人以上。「モテるおとな」をテーマにした動画を数々配信し、話題に。
90才ではじめたSNSがバズった
――長年、和装や日本のしきたりについて研究・執筆されてこられて、最近はSNSが注目されています。大人の作法やマナーを指南するTicTok『みよちゃんに叱られる』は若い世代にバズりました。
SNSを始めたのは90才のときです。所属している事務所のマネージャーさんに背中を押されましてね。若いかたたちに日本の文化やしきたりを伝えるのは意味があるんじゃないかと思ったんです。
日本の文化やしきたりがどんどん廃れてきているような気がしましてね。例えば海外のスポーツ中継なんかで野球選手の人がグラウンドにつばをペッと吐き捨てることがありますでしょ。海外では普通のことかもしれませんけど、日本人には絶対マネをして欲しくないんです。
日本人ならではの美しいしぐさや奥ゆかしさ、教養や品格を感じさせる大人の作法を継承していきたい。そういう想いもあって、発信を続けています。
動画の撮影やアップ作業はスタッフにお願いしていますが、撮影で伝えたい内容は、すべてワードを使ってパソコンで原稿を仕上げています。今日の取材もお答えしたい原稿はしっかりとワードにまとめて用意してきました(笑い)。
飯田美代子さんの人生を振り返る
――どのような幼少期を過ごされたのでしょうか。
小さい頃から書くことも読むことも大好きでした。小学校に上がる前くらいかしら、父の蔵書にあった岡本一平全集に興味を持って、『人の一生』を挿絵とひらがなを追って読んでいましたね。次々とページをめくっていく私に父が『美代子は天才だ!』って(笑い)。最近、もう一度読み直したいと思って入手したんですよ。
『人の一生』は大正から昭和初期にかけて書かれたものですが、いま読み返しても新鮮で面白いのよ。それから、豊田正子の『綴方教室』も好きで、いわゆる文学少女でしたね。
私の本籍は東京・墨田区亀沢町で、一人っ子でしたから、両親の愛情を受けて育ちました。父は江東区の大島の工場を経営し、エンジニアとして働き、戦時中は飛行機のプロペラなんかを作っていました。
母は古風な女性で、言葉づかいや作法には厳しい人でしたから、母の影響はあるかもしれません。幼い頃からお習字や日本舞踊を習っていて、戦争が終わったら日本舞踊の先生になるのもいいかな、なんて夢を抱いたこともありました。
生涯忘れない「東京大空襲」のこと
――戦争のご経験を聞かせていただけますか。
昭和20年(1945年)3月10日。
東京大空襲の日は一生忘れられません。女学校の2年生、修了式が終わった春休みでした。
「あの戦火で私は一度死んだ」。そんな風に思えてね…。
当時は江東区の亀戸で暮らしていましたが、あの辺りはとくに被害が大きかったんです。明け方空襲警報が発令されて家族で防空壕に逃げようとしたら、亀戸周辺には焼夷弾は落とされなかったと後で聞きました。
大通りの両側は、周囲に落ちた焼夷弾の炎で大火事になっていました。通りは火の海、火だるまになった馬が走っていて、燃えたトタン屋根がくるくる回って吹っ飛んでいる。通りは逃げ惑う人で溢れ返っていて、あの光景はまさに地獄絵図でした。
大通りには50人くらいの人の塊がいくつかできていて、私はその塊の外側に座り込んでいました。人の塊の中から、ひとりの若い男性が立ち上がり、『硫黄島の兵隊さんはもっと熱いところで頑張っているんだから、みなさん頑張りましょう!』と言って、軍歌を歌い始めたんです。集まった人々が口ずさんでいた軍歌は、いつの間にかお経に変わっていました。人々がみんな「南妙法蓮華経」と唱えているんですよ。
私は火の粉を浴び、火の海と化した道を歩き続けたことで、ひどい火傷を負いました。手足が水ぶくれになっていて、避難所に着いたときには気を失っていました。何時間たったのかわかりませんが、3月の風が心地よく感じられ、やがて目が覚めたような気がします。
私は生きていました。
救護所では簡易的な手当てしかしてもらえないので、母があちこち走り回って火傷に効く薬を探してくれました。歩けるようになるまで2か月くらいかかりましたね。足の指が変形してしまって、いまでも足の指の爪を切るのに苦労するんです。
あの日、火の海で逃げ惑う人々の姿を見ながら、当時の私は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を思い浮かべていました。1本の蜘蛛の糸に多くの人たちが救いを求めて寄っていく姿が重なったんです。
15才で迎えた終戦、そして…
――ご自宅が焼けてしまって、終戦の日はどこで迎えられたのでしょうか。
工場で働いていた職人さんが暮らしていた千葉県の津田沼に一家で移り住み、ほどなくして父の友人を頼って群馬県の太田に身を寄せました。
引越しは8月15日、荷物を積んだ荷車が到着したのがお昼前でした。荷物を下ろしていると、大家さんが血相変えてやってきて、『12時に重大放送があるから、みんな集まってください』と。
近所の人たちとラジオがある場所に集まって、玉音放送を聞きました。音が割れてよく聞き取れなかったのですが、天皇陛下の『朕は』というのだけはわかりました。
隣にいた父がわーっと大きな声で泣きながら、『日本は負けた』と、はっきりと言ったんです。集まった人たちは玉音放送よりも、父の叫び声で負けたことが分かったようでした。
今は戦争を知る人が減ってきましたが、伝えていかなきゃいけないと思っています。発信することは体験者の私の役目でもありますから。(次回につづく)
取材・文/廉屋友美乃
