東国原英夫さんが明かす“両親の介護と最期” オレオレ詐欺の男を家に入れていた認知症の母親、父親の死から2か月、後を追うように旅立った「最期までおしどり夫婦だった」
元宮崎県知事、元衆議院議員でタレントの東国原英夫さん(68歳)は以前、認知症の母親の介護生活を送っていた。母親は父親による在宅での老老介護を経て、施設へ入居。東国原さんが、離れていても最期までつながっていた「おしどり夫婦」の絆を明かしてくれた。
入院先の病院に「入居」できるはずが……
――母親が認知症だと気づいたきっかけはありますか?
東国原さん:認知症は急に発症するわけではなく、徐々に進行していくものです。それを踏まえて振り返ると、亡くなる10年ぐらい前、母が85歳の頃から、おかしいと思うことが増えました。きっかけは、宮崎県と鹿児島県の県境にある鹿児島県曽於市の病院に入院した時です。
靴の中にムカデが入っていまして、ムカデに噛まれて、びっくりして転倒して背中を骨折したんです。高齢者にとって転倒は命にかかわる大事ですよ。入院先の院長先生と話したら、「このまま高齢者施設と思って使ってもらって構いませんよ」と提案してもらえたんです。
父と母はおしどり夫婦で仲が良く、離れられないんですね。だから母だけが入院というのはあり得ませんでした。父も付き添いたい、そばにいたいということで、父も一緒にいられる広めの部屋に入院させてもらえたんです。
本当にありがたい話です。ぼくの家は宮崎にあっても、東京で仕事をしているので頻繁に戻れません。病院に入居できるなんて、医療付きの老人ホームみたいなものじゃないですか。なにかあったら医師や看護師にすぐ対応していただけると喜んでいたのですが……。
オレオレ詐欺の男を家に入れていた
――トラブルがあったのですか?
東国原さん:夜中に夫婦で病院を脱出して、自宅に帰ってしまったんです。「帰宅願望」は、認知症でよく見られる症状のようですね。その時に初めて、認知症を疑いました。本人が帰りたがっていても入院していなきゃいけない。コルセットで腰を固めている状態で、本来は安静にしていなければいけません。
それにもかかわらず、病院に戻しても2人で抜け出してしまうんです。そのたびに病院から「ご夫婦がいらっしゃいません」と連絡が来ていました。ぼくは東京で仕事をしていますから、対応するのは妻です。それで探すと、父と母は実家に帰っている。そういうことが3回ほどありました。
本人たちがどうしても在宅を希望するので、治療が終わった1か月半ぐらいで退院することになりました。ぼくは宮崎の家に戻ると、鹿児島の実家に顔を出していたのですが、この頃から母が変なことを言うようになっていました。散歩に行く時に「徘徊に行ってくる」と言ったり。それはおかしくて笑いましたけど(笑い)。
――元々母親のタミさんはユーモアのある方なので、ジョークにも聞こえますね。
東国原さん:笑えないこともありました。今は以前ほど多くないと思うのですが、当時はオレオレ詐欺の電話が時々かかってきました。それで、なんと母は、オレオレ詐欺の男を家に入れちゃったんですよ。近隣の方から連絡があって発覚しました。
その日はお金を渡したり、なにか契約してはいないのですが、オレオレ詐欺の電話が来たらぼくに連絡をするよう、両親には強く伝えました。その後も電話があったようですが、母は「息子は死にました」と言っていたようです。
決定的になったのが2020年頃。息子のぼくがわからなくなってきて、その2年後には完全に「どなた様ですか?」という状態で。とうとう来たか、という気持ちでした。ショックでしたけど、徐々に症状が進行していたので、心の準備はできていました。
ただ、認知症が進んでからも「小学校の頃はこうだったよね」なんて昔の話をしていると、目をパチッと見開いて、生き生きとした表情になることがありました。あれは、ぼくにとっては救いでしたね。
両親は最期までおしどり夫婦だった
――認知症になった母親に、どのような介護をされていたのですか?
東国原さん:父は母より7歳年下なので、78歳の父が85歳の母を介護する、在宅での老老介護をしていました。それと、ぼくの家から両親の家まで車で1時間くらいなのですが、妻が週に何度か実家に行ってくれて。在宅介護サービスでも、簡単な介護と家事を週に2回ぐらいしてもらっていました。そこからだんだん介護サービスの頻度が増していって、要介護度3になった2020年頃に介護老人保健施設に入りました。
このころ、父が肺を患って入院しまして。コロナ禍なので危険だったんですよ。父の入院のタイミングで母親も施設に入った。別れるのを嫌がるかと思ったら、両親は簡単に受け入れたんです。この時、母の認知症が本格的に進行したのだと痛感しました。もし正常な判断力があれば、父と離れることを絶対に受け入れなかったはずですから…。
それから2年ほど経つと、母は完全に父のことがわからなくなったし、父も母のことを一切言わなくなりました。理由は定かではありませんが、父も認知症が始まっていたので、そのせいかもしれません。
――ご両親は昨年、亡くなったんですよね。
東国原さん:そうです。昨年3月末に父が危篤だと連絡を受けて、1時間後には飛行機に乗って文字通り飛んで帰ったのですが、父は息を引き取っていました。それから2か月も経たない5月の初旬、後を追うように母も亡くなりました。母が95歳で父が88歳でした。
ぼくは死に目に会えなかったのですが、息を引き取って数時間後の顔を見ています。2人とも穏やかな表情でした。写真も動画も撮ってますよ。時々見返します。お守りのようなものです。
施設が離れていて2人は一言も会話をしていないのに、立て続けに亡くなるなんて、どこかつながっていたんだなと感じました。以心伝心というか、テレパシーというか。両親は最期までおしどり夫婦でした。
◆政治評論家、タレント・東国原英夫
ひがしこくばる・ひでお/1957年9月16日、宮崎県生まれ。1980年よりビートたけしの一番弟子「そのまんま東」として、バラエティ番組を中心に活躍した。2000年早稲田大学第二文学部に入学、2004年卒業。2007年宮崎県知事就任、「どげんかせんといかん」をスローガンに宮崎ブームを牽引した。衆議院議員を経て、現在はタレント、コメンテーターとしてテレビや講演会などで幅広く活動する。
撮影/小山志麻 取材・文/小山内麗香
