兄がボケました~若年性認知症の家族との暮らし【第269回 そして誰もいなくなった】
57才で若年性認知症を発症した兄を妹のツガエマナミコさんが在宅でサポートし続けて8年。ついに、兄が施設に入所する日がやってきました。慌ただしく介護タクシーで家を出発した兄とマナミコさん。マナミコさんがその日のことを振り返ります。
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兄が特養に入所した日
兄が施設に入所いたしました。
予報通りの大雨の朝、自転車でびしょ濡れになってヘルパーさまが来て下さり、最後のオムツ交換をしてくださいました。その後、介護タクシーの方が2名で兄をベッドから車いすに乗せ換えて、いよいよ出発。マンションの管理人さまと「寂しくなりますね」「そうですね」と会話をしましたが、正直なところ「そうでもないし」と思っていました。
施設に着くと、兄の部屋へ案内されました。2階の西向きのお部屋でございます。背丈ほどある大きな窓の向こうに畑が見えて、天気が良ければなんと富士山も見える眺めのいい場所。兄が気に入るかどうかはわかりませんが、少なくともわたくしは気に入りました。
会う人すべてに「お世話になります。宜しくお願いします」と言いながら、兄の部屋に行くと、個室に5人ほどのスタッフさまが入り、兄を車いすからベッドに移乗してくださいました。
そこからは怒涛の勢いで、いろいろなことが一度に行われました。
まずは施設の看護師さまにお薬とお薬手帳を手渡し、何をいつどんな風に飲ませているのかやアレルギーの有無、排便の事情など医療的なお話。それが終わると前日送った荷物をほどき、服を引き出しに、洗面道具は洗面台に置くなどの作業。その間にも理学療法士の方や管理栄養士の方が入れ替わり立ち替わりいらっしゃって、「趣味はありますか?」「食べ物の好き嫌いはありますか?」「手足は動かして大丈夫ですか?」といった質問攻め。さらにその傍らで介護スタッフの方々が新品のテレビの梱包をほどいて観れるようにしてくださり、40~50分ですべてのセッティングが完了いたしました。
「じゃ、下で契約の手続きをしましょう」とあわただしく部屋を出ることになり、兄の顔をゆっくり見ることもなく、「じゃあね」と声を掛ける雰囲気もないまま、わたくしは押し出されるように1階の応接室へ行きました。
そこでは契約書の内容確認とともに署名・捺印の嵐。看護師の方、理学療法士の方、管理栄養士の方が改めてご挨拶に来られて、それぞれの確認書面にサインをいたしました。兄の保険証の類を全部施設の方に手渡したときには、「ああ、これで兄の介護から解放される。もう通院の面倒もない」と肩の荷が下りた気がいたしました。
全て終わったのは到着してから1時間半ぐらいでしょうか。「ちょうど雨が小雨になりましたね。では気を付けてお帰りください」とエントランスに促され、わたくしはそのまま施設を後に致しました。
一度部屋に戻って兄に何か一言いえばよかったなぁと思いましたが、それもなんだか照れくさいし、永遠の別れでもないので「むしろ、これでよかったんだ」とまっすぐ家に帰ってまいりました。
時刻は正午。家に着くまでは「お昼何食べようかな~」とルンルン気分で、「寂しくなりますね~」という言葉など、どこ吹く風だったのですが、いざ誰もいないリビングに空の介護ベッドがドーンとある光景を眺めていたら、さっきまでここにいておどけていた兄の顔が浮かんで、グググっとこみ上げてくるものがありました。ショートステイとは全然違う「もうここに帰ってこない」ということが悲しかったのでございます。
でも次の瞬間、泣いてしまう自分が悔しくて、無理やり過去を思い出しました。
「イヤイヤ、どれだけお尿さまを撒かれてきたか、どれだけお便さま掃除で床を這いずってきたか、食事に着替えに汚れ物の洗濯にどれだけ泣いてきたかを思い出せ!」と。
それでも、こういうときは良いことばかりが浮かぶものです。わたくしが「買い物に行ってくるね」と言うと「は~い、気を付けてね」と言ってくれたのは、つい2日前でした。
良いことなんてほとんどなかったのに、そっちの方が重ねてきた苦行より前面に出てくるなんて、まったく不思議なものです。
「そして誰もいなくなった…」。この日の感想はその一言でございました。
文/ツガエマナミコ
職業ライター。女性61才。両親と独身の兄妹が、8年前にそれぞれの住処を処分して再集合。再び家族でマンション生活を始めたが父が死去、母の認知症が進み、兄妹で介護をしながら暮らしていたが、母も死去。そのころ、兄の若年性認知症がわかる(当時57才、現65才)。通院しながら仕事を続けてきた兄だったが、ついに退職し隠居暮らしを開始。病院への付き添いは筆者。
イラスト/なとみみわ