「夫のことを知ってもらうには私が書くしかない」山村美智さんが一周忌を前に本を出した理由
女優で元フジテレビアナウンサーの山村美智さん。伝説のお笑いバラエティ番組『オレたちひょうきん族』の“初代ひょうきんアナウンサー”として活躍したことでも広く知られている。山村さんが36年半連れ添ったのが、フジテレビプロデューサーとして数々のヒット作を世に送り出した宅間秋史(たくまあきふみ)氏だ。2020年12月18日、その最愛の夫である宅間さんが他界した。享年65。食道がんを患い、13回の入院治療、1年5か月の闘病生活を経ての旅立ちだった。
“二心二体”だった夫が旅立って…
一周忌が約1か月半後に近づく先月27日、山村さんは初の著作『7秒間のハグ』(幻冬舎)を出版した。著書には宅間さんとの出会いから別れまでが綴られている。
宅間さんが山村さんの心を解放してくれたこと、一心同体でなく“二心二体”で、互いの仕事や考え方を尊重してきたこと。二人で楽しんだ旅行やサッカー観戦、明るく賑やかな生活の中心にいる愛犬たち。宅間さんの浮気の発覚と、それを乗り越えるまでの葛藤にも触れている。
そしてがんが見つかってからの日々、全快を信じて疑わなかった行動の足跡。
「4月に書き始めたとき『嘘は書かない、大げさに書かない』という2つを決めました。つらい話が続いた後は、ちょっと笑える思い出話を意識的に入れたりしています。書きながら苦しくなるのを避けたい思いもありましたし、なにより、読んでいて苦しくなるような闘病記は私自身が苦手なので。フィクションのようにさらりと読んでいただけたらうれしいですね」(山村さん、以下「」同)
愛する人を亡くした苦しみはいつ癒えるのだろうか。それは人によって異なるだろうが、山村さんは看取ってから4か月後に本を書き始めた。
執筆にあたっては、日記や宅間さんの筆談ノートを読み返したという。嘘やごまかしを防ぐためには、正確な記録の確認が必要だったから。
だがノートを開けば、当時の宅間さんと自分がいる。翌日、1週間後、半年後に何が起きるか知らずに、これがベストと信じたことを夢中で続けている。
――振り返るにはまだ生々しく、とても悲しくつらい思いを追体験するようなことではなかったでしょうか?
記者の問いに、山村さんは手のひらをじっと見つめながら語る。
「そうですね。かさぶたをはがされるような、胸の奥に刃物を入れてぐしゃぐしゃにされているような感覚がありました。
入院中につけていた『何時何分、吸入』『○○先生の回診』というような治療の記録ノートは、結局、一度も見られませんでしたね」
嘘やごまかしを禁じる執筆姿勢が山村さんの内側にも向く。まるで私小説のように自己を掘り起こして“真実”を見極めようとするのが山村さんの姿勢だった。
“かさぶたをはがされるような痛み”を何度も感じながら、それでも書き続けた理由をあとがきにこう記している。
《夫は、入院中、映画の企画を5本も立てたのに、そのまま、天国に持って行ってしまいました。(改行)
まるで「天国のお蔵入り」です。私は、お蔵入りした5本の映画の代わりに、せめて夫とのことを本に残さなくては、と思い立ちました。》
「あとがき」
「宅間秋史はこういう人なんだと知ってほしい」
ミスターフジテレビと呼ばれていた宅間さんが手がけた作品はドラマ『ヴァンサンカン・結婚』『もう誰も愛さない』『29歳のクリスマス』、バラエティ『ドリフ大爆笑』『夜のヒットスタジオ』『火曜ワイドスペシャル』、映画『GTO』『ウォーターボーイズ』『大河の一滴』など多岐にわたる。
プロデューサーは表舞台に出る機会が少ないため、クレジットタイトルで「宅間秋史」の名を見慣れていても人物像までは知らない人がほとんどではないだろうか。
「多くのかたから、『本を書いた方がいいよ』と言われたのですが、最初はとてもそんな気持ちにはなれなかったんです。でも、夫のことを知ってもらうには、私が本を書くしかないと。私自身も夫が亡くなった意味を知りたいと思った。これまでの記したノートや日記、写真を見ながらの作業でしたが、それは、もうつらかったですが、夫が映画制作にかけていた思いや、苦しかった姿を書くことで、宅間秋史という人はこういう人だと伝えられるかなと」
著書は独身時代の大磯旅行から始まる。メンバーはフジテレビ営業部の宅間さんと永山耕三さん、ネットワーク部の遠藤龍之介さん、ワイドショー『おはよう!ナイスデイ』で裏方を担当していた寺尾のぞみさん、そして『ひょうきん族』を皮切りに怒涛の仕事量をこなす毎日の山村さん。
年齢の近い5人は自分たちに「モダン会」という名をつけ、遅れてきた青春を謳歌するように楽しい時間を共有した。
まるでフジテレビが流行らせた月9ドラマやトレンディドラマの世界だ。暇な男子たちというがそれは当時の話で、のちに遠藤さんはフジテレビ社長、永山さんは『東京ラブストーリー』や『ロングバケーション』など月9を含む数々の人気ドラマを生み出す演出家、宅間さんは社を代表するプロデューサーとなった。やがて山村さんと宅間さんは結婚する。
結婚まもなく宅間さんは念願の編成部へ異動。約1年後には山村さんがフジテレビを辞めて女優業を本格化した。
宅間さんの赴任による5年間のニューヨーク生活を経て、山村さんは「本当の夫婦、普通の夫婦になれた気がした」と作中に書いている。
その後、宅間さんは制作会社を立ち上げて独立。それぞれの仕事に打ち込みながら、海外旅行、サッカー観戦、食べ歩きと、楽しいことはいつも一緒にしてきた。
そんな結婚生活が35年を過ぎた2019年7月、喉の違和感で受けた検査の結果を宅間さんが電話で山村さんに伝える。
《「みっちゃん、ごめんね……食道がんだった」
やっぱりさらりと明るい声で、秋史が告げた。》
《「おかえり、お疲れ様~」
家に戻るのなら、帰ってから検査結果を言ってもいいようなものなのに、電話でしか私に告げられなかったのだと思う。二人とも努めて明るく振る舞った。なんだか、お芝居してるみたいだ。》
《「みっちゃん、大丈夫だからね。落ち着いてね」
落ち着かせたかったのは、自分自身だったのだろう。コーヒーを飲み終わると、とにかく会社に行くから、と出て行った。玄関を出る前、愛犬のカレンとセリーナにキスをした後、いつものように私達は、「行ってらっしゃい」のハグをした。落ち着いて見えていた秋史の鼓動が、激しく伝わったのを覚えている。》
「みっちゃん、ごめんね」
山村さんはすぐ戦闘モードに切り替え、宅間さんの全快だけを目指して新たな生活をスタートさせた。1年後の2020年6月までに12回の入退院を繰り返した宅間さん。
途中からはコロナ対策で看病はおろか、1日5分間の面会さえ厳しく制限される時期が続いた。
山村さんは宅間さんが治ることを信じ、免疫療法や民間療法も可能な限り試して手を尽くした。けれど最後の入院から110日後の12月18日、宅間さんは帰らぬ人となる。
「親しい人たちのためにも生きていかなきゃと思う」
昨年12月20・21日に東京の青山梅窓院で行われた通夜・告別式には、コロナ禍にもかかわらず両日合わせて400人以上が参列した。
本書を読むと宅間さんが多くの仲間や友人に愛され、早すぎる別れを惜しまれた理由がわかる。
「本を出す前に知り合いに、読んでもらいました。涙で読めないという人もいましたが、『自分の娘に読ませたい。夫婦とはこういうものだと』と言ってくれた人もいました。読んでいて苦しくなるような内容にはしたくなかったですね。ご主人に会ってみたかったと言われたときは、とてもうれしかった。夫のことをみんなにわかってもらいたいんです」
身を削るように書き上げた。しかし、書き終えたときは、寂しくなったという。そして、銀杏並木が色づく時期を迎えるにあたり、また複雑な心境だと語る。
「少し、気持ちを持ち直してきたかなと思っていましたが、実は、いま、再びつらさがぶり返してきているんです。ちょうど、一年前のこの頃は、ICUに入ったりと苦しくなってきた時期だったので、そのときの気持ちがよみがえるというか…」
いまも、宅間氏とつながりのあった人からメールなどが届くという。
「夫がかけた言葉とか、どんな思い出があるのかなど、知らせてもらうのはとてもうれしいですね。仕事でのことは知らない姿もたくさんありますからね」
はにかむような笑顔で語る山村さん。
「本当に一人になったんだなあと思うと、まわりの人の声がけやLINEは身に染みますね。いまは、親しい人たちのためにも生きていかなきゃなと思っています」
<つづく>
プロフィール
山村美智(やまむら・みち)さん
1956年三重県生まれ。津田塾大学卒業後、フジテレビジョン入社。お笑いバラエティ番組『オレたちひょうきん族』の初代ひょうきんアナウンサーなどで活躍。1984年、宅間秋史さんと社内結婚。1985年に退職して女優業を本格化。最新作は2022年公開予定の映画『今はちょっと、ついてないだけ』。2021年10月、初の著書『7秒間のハグ』(幻冬舎)を出版。
取材・文/柴田敦子 撮影/横田紋子