堂本暁子さん×樋口恵子さん89才”同士”対談「コロナ禍“ひじタッチ”で再会」
「力強く道を切り開いてきたふたりのおしゃべりに励まされた」「笑顔とファッションがチャーミング!」―― こんな反響が続々と届いている89才、元千葉県知事・堂本暁子さんと評論家・樋口恵子さんによる、女ふたりのよもやま対談。人生を変えた“運命の人”との出会いから選挙への出馬にまつわる思い出話までまだまだおしゃべりは止まらない。「いくつになっても女は手を取り合って外に出なさい」「自粛はしても、萎縮はするな」など金言が盛りだくさん。読めば元気になる日本一パワフルな同級生対談をお楽しみください!
89才、女ふたりコロナ禍“ひじタッチ”で再会
樋口 緊急事態宣言は解除されたけれど、新型コロナウイルスは本当にやっかいね。せっかく堂本さんと会えたのに、握手もできないなんて…。
堂本 そうね。でも、この“ひじタッチ”だって悪くないと思わない?
樋口 ええ、なかなか新鮮でいいわね。コロナ禍が1年半以上続くなかで、日常生活に変化を感じたことってある?
堂本 人が集まる場所は避けるようになったけれど、それ以外はほぼ変わっていないの。だけど社会では弱い立場にいる人たちがさらに生きづらい状況に追い込まれていて、そのことがとても気がかりです。
樋口 非正規雇用で職を失ってしまった人も多いという話を聞くし、社会的弱者にしわ寄せが集まっているように思えます。
堂本 東日本大震災のときもそうだったけれど、コロナ禍のような非常事態になると、社会のなかに潜む弱者への差別意識が、地面から槍が突き出るように表面化します。それで苦しむのはいつも、女性や高齢者たちです。
樋口 堂本さんは東日本大震災をきっかけに、防災や復興の現場への女性のかかわりを進める「男女共同参画と災害・復興ネットワーク」を設立されたわね。10年以上ジェンダーの視点から復興に携わっていたら、それこそ“槍(やり)”が至る所に突き刺さっていることを痛感されたんじゃないですか?
堂本 ええ。いちばん問題だと思ったのは、避難所の運営をしていたのが男性ばかりだったこと。女性がいないと、どうしても視点が偏りがちになるんです。赤ちゃんと一緒に避難してきたお母さんが、「子供の泣き声がうるさい」と文句を言われて、肩身が狭くなることもあった。いまこそ、コロナで弱い立場に追いやられた女性たちへの支援が必要だと感じています。
樋口 あまりにも大変な状況だから、苦しんでいる人たちにどんな言葉をかけたらいいのか、私も常に悩んでいます。ただ、ひとつ言えるのは苦しいときはなるべく自分を認めて褒めてくれる人の側に寄っていった方がいいということ。
堂本 おっしゃる通り。家族でも友達でも、近所の人だっていい。自分のことを認めてくれる人がいれば、そこから道が開ける可能性は大きいわ。
私を変えた夫の一言
主婦から評論家へ、テレビ局記者から政治家へ。自ら道を切り開いてきたように見えるふたりだが、転機は人との出会いによってやって来た。堂本さんはTBS時代、上司に励まされながら無認可保育所の実態を追った「ベビーホテルキャンペーン」で、日本新聞協会賞など6つの賞を受賞。樋口さんは結婚後、専業主婦として充足した日々を送っていたが、夫の一言で人生が大きく好転した。
堂本 ベビーホテルの問題を取り上げ、新聞協会賞を受賞したのは1980年。無認可の保育所が増えたから、ニュース番組で紹介しようと思って行ってみると、すごく悲惨な状況だったの。ほったて小屋みたいな、トイレすらない悪臭が漂う施設で、弁当の残飯を食べさせられている子や、大人を見るとおびえる子もいて、大きなショックを受けました。
樋口 あの頃、女性の働き口が少なかったから、水商売を選ぶ人はいまより多かった。彼女たちにとって、夜も子供を預かってくれるベビーホテルはなくてはならない存在で、だからこそ当時、都市部を中心に急増していたのよね。
堂本 ええ。現場に足を運ぶうちに、これは大問題だと感じたの。デスクに相談したら「徹底的に調べて表に出しなさい」とアドバイスされて、最終的には1か月間、毎週番組で取り上げた。上層部からは「いつまでやるんだ」と圧力もあったようだけれど、デスクが「いま放送を止めたらだめだ」とはねつけてくれたの。
樋口 実際の映像は、社会に衝撃を与えたわ。法律が変わるきっかけにもなったのよね。
堂本 そうなの。1981年に児童福祉法が改正されて、認可外施設への国の立入調査が可能になったし、認可保育所を増やす動きも生まれた。理解のある上司だったから、本当に助けられたのよ。
樋口 その後、国会議員になったのもベビーホテルの報道がきっかけでしたわよね?
堂本 いろんな党から立候補のオファーが来たのだけれど、記者の仕事に熱中していたからすべてお断りしたの。だけど元衆院議長の土井たか子さんだけは9年間もラブコールをくださった。その熱意に吸い寄せられるようにして、1989年の冬に立候補したんです。
樋口 周囲の人に支えられて新たな道が見えるのは、人生の醍醐味ね。私の場合は夫でした。新卒で入った会社を失意のうちに辞めた後は、社宅で専業主婦として、奥さん同士でお茶をしたり刺繍のサークルに入ったりそれなりに幸せな毎日を送っていたのよ。だけど夫の一言で、ふたたび社会に出ようと思ったんです。
堂本 当時は「女性は結婚したら家に入る」が常識だったのに、ご主人はとても進歩的だったのね。
樋口 夫は5つ年上のエンジニアだったんだけれど、ある日、神妙な顔で、「お恵ちゃん、ちょっと」と私を呼んだの。側に行くと、「きみが家事一般がよくできるということは、よくわかった。料理も毎日工夫してくれてありがたいと思っている」と言う。そしてしばらく黙って…。
堂本 何とおっしゃったの?
樋口 「だけどきみ、ぼくたちは国民の税金で国立大学を出たんですよ。いまはぼくの妻として社宅にいるかもしれないけれど、いずれきみが活躍できる場所が見つかるはずだから、もっと苦労している女性のために少し勉強した方がいいと思う」と言ったのよ。それまでは、穏やかな性格の“リケダン”だとしか思っていなかった夫の強い主張に、思わず正座して聞き入ってしまった。その後、私は上っ調子の己を恥じ、再度勉強を始めたの。学生時代の本を出してきて、法律や労働のなんたるかを学び、就職活動を始めました。
堂本 とても素敵なご主人ね。だけど当時、一度家庭に入った女性が仕事に出るハードルは高かったと思うわ。どんなふうに仕事を探したの?
樋口 いちばん役に立ったのは新聞の求人広告ね。三行広告。ネットはもちろん、就職情報誌もない時代。だからひたすら新聞を見ては履歴書を送っていました。100通は書いたわよ。たくさんの求人広告をひたすら読むことで、雇用についての知識がついた。結婚や妊娠で退職する契約になっていたり、男性よりも定年が早かったり、女性が不利な雇用形態が多いことがわかりました。求人票とにらめっこの日々を過ごした後、縁あってアジア経済研究所の臨時職員に採用され、そこから人生が変わっていきましたね。
堂本 女性であるがゆえに多くの扉が閉ざされていた時代に、正面突破で道を切り開いてきたのは本当にすごい。私は就職も出馬も、周囲の人の誘いに乗って決めてきたからずいぶん“受け身”の人生だったと改めて思ったわ。
樋口 つらいときほど意識的に外に出るようにし、変化を求めて行動していました。堂本さんは、児童福祉法の改正を求めたときはとても能動的に、情熱を持って行動なさっていたわよね。
堂本 確かに、言われてみればあのときはまったく受け身じゃなかったわ(笑い)。だって全国のベビーホテルを取材して、厚労省に問題点を訴えているのに、「公費は出せない」と言うのよ。担当窓口で何度も担当者と、周囲の人が驚いて振り返るほどの大喧嘩をしたわ。だけど次第に保育士さんが声をあげるようになって、国も動き出した。
樋口 あきらめずにやり続けたのがよかったのね。
堂本 コロナ自粛も必要だけれど、必要以上に萎縮して、つらいときに黙ってしまってはいけない。
樋口 その通り。困ったときこそ行動すると、手を貸してくれる人がいる。私も、娘が4才のときに夫を亡くしてからは、何人もの女性に助けられてきた。堂本さんとも、ずいぶん助け合って生きてきましたよね。
堂本 樋口さんのことはベビーホテル問題を取り上げた番組に評論家として出演していただいた50年前から、ずっと“同志”だと思っているわ。
樋口 私も堂本さんに初めてお目にかかったとき、“女性同士、いい仲間になれる”と直感的に思ったのよ。当時は堂本さんをはじめとして少しずつ政治家に女性が増えてきたし、女性議員がその場に存在したからこそ、男社会だった政治の場でスムーズに問題提起ができた。
堂本 よく女性だけで集まって打ち合わせをしたわよね。例えば当時の外務大臣だった河野洋平さんに話を聞いてもらうために、会議の場では誰が隣に座って、どのタイミングで話しかけたらうまくいくかとか。綿密なシミュレーションを練ったのが懐かしいわ。
89才からの“出馬宣言”
ふたりが政治の場で提言を行っていた当時の外務大臣・河野洋平氏(84才)は、自民党総裁選に出馬した河野太郎氏(58才)の父にあたる。当時は少数派だった女性議員も現在は総裁選の立候補者のうち半数を占める時代になった。
樋口 50年前と比べたら、長足の進歩ね。だけど世界と比較するとまだまだ政治の場に女性は少ない。衆議院議員の女性比率は9.9%。国別のランキングでも166番目です。
堂本 地方行政もまったく同じ状況です。女性の知事って実はすごく少ないの。選挙で知事を選ぶようになってからこれまで335人の知事が誕生したけれど、女性は現職を合わせて7人しかいない。実際に私が選挙に出たとき「女性なのによく出馬したね」ってまるでバカにされるように言われたこともあったわ。
樋口 ひどい話だわ。だけど私も、2003年の東京都知事選に出たときに周囲に相当反対されたから、堂本さんの気持ちが身に染みてわかる。そもそも、日本は出馬するハードルが高すぎると思わない?何より、立候補するときに社会保障審議会や男女共同参画会議など、就いていた公職をすべて辞職しなければならなかったのです。
堂本 海外ではそんなことはないわね。イギリスでは、裁判官や銀行員でも現職を続けながら立候補できる。議会も土日に開かれたりするから、市民の声を取り込みやすい。政治家への門戸が広いんです。
樋口 日本では、落選しても生活できる人しか立候補できないわね。だからどうしても二世議員が多くなってしまう。
堂本 定職を持っていても議員になれる制度が日本にできれば、多様な声が政治に反映されて、女性の生きやすさにもつながると思う。
樋口 多様性ということで言えば、高齢者の意見も積極的に政治に取り入れるべきだと思う。日本ではたびたび、「政治家の高齢化」が問題視されているけれど実は海外では日本より高齢の政治家が出やすいようです。例えばアメリカにはひと頃91才の議員がいたし、北欧には「高齢者評議会」と呼ばれる、シニアが政治について議論する場があったりする。
堂本 確かにいまは人生100年時代。今後、有権者のうち高齢者の割合は確実に高くなっていくから当事者として意見を反映させるのも重要ね。もう一度選挙に出て、制度を変えるのもアリかしら?
樋口 それ、名案だわ! 一緒に出馬しましょうか!
教えてくれた人
評論家 樋口恵子(ひぐち・けいこ)さん
1932年東京都生まれ。評論家。NPO法人「高齢社会をよくする女性の会」理事長、東京家政大学名誉教授、同大学女性未来研究所名誉所長。『老いの福袋 あっぱれ! ころばぬ先の知恵88』(中央公論新社)など著書も多数。
元千葉県知事 堂本暁子(どうもと・あきこ)さん
1932年アメリカ・カリフォルニア州生まれ。TBSで記者・ディレクターとして福祉や教育問題を中心に番組制作後、参議院議員、千葉県知事を歴任。現在は「女子刑務所のあり方研究委員会」を設立し政策提言などを行う。
撮影/本誌・黒石あみ
※女性セブン2021年10月21日号
https://josei7.com/
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