連載

映画『ファーザー』を見たら認知症の母の混沌とした世界が理解できた気がした

 認知症の父親を演じたアンソニー・ホプキンスが、アカデミー賞主演男優賞に輝いた映画『ファーザー』が話題だ。認知症の母を介護している作家でブロガーの工藤広伸さんは、映画を見て母に対する思いが変化したようだ。認知症介護の当事者、工藤さんによる話題の映画レビューをお届けする(一部ネタバレ注意)。

認知症を描いた映画『ファーザー』の錯覚

 よく「相手の立場に立って考えろ」と言いますが、認知症の世界においてはなかなかそれが叶いません。なぜなら、自分自身が一度も経験していない未知の領域だからです。

 母の認知症介護を8年以上経験していても、未だに理解に苦しむ母の言動が多くあり、認知症の人の立場が少しでも理解できたら、もっと優しく介護ができるのにと思いながら、わたしは今も遠距離介護を続けています。

 映画『ファーザー』は、そんな認知症の未知の領域に一歩足を踏み入れられる、初めての映画になるかもしれません。

認知症の混沌とした脳内世界に引き込まれる

 この作品は、アンソニー・ホプキンス演じる父アンソニーと、娘アンの物語です。

 人の力を借りなくても自分で何でもできると思いこんでいるアンソニーをよそに、認知症の症状はどんどん進行し、介護の場所も変わっていきます。

 従来の認知症映画は、過去の自分と認知症になったあとの自分とを比較して葛藤する姿や、認知症の人を介護する家族の苦悩の日々を描写する作品が多いのですが、『ファーザー』はアンソニーの脳内を一貫して描いています。

 もちろんアンや周囲の人もアンソニーの言動に困惑しているし、首を絞めたくなるほど苦悩するシーンもあるのですが、それ以上に映画を見ているわたしたちが、認知症の混沌とした脳内の世界に引き込まれる感覚です。

 というのも、アンソニーが居る場所(正確には居ると思いこんでいる場所)やアンソニーが認識している人物(あくまで認識であり、実際は別人物)が、ナレーションや字幕で説明もなく、次々と入れ替わっていきます。

 これは認知症における見当識障害そのもので、自分が今どこにいて、何をしているのか、今が何時で、誰と話しているのが分からない、その混乱を映像とストーリーで再現しているのです。

 アンソニー・ホプキンスがアンソニーという役名で演じているところでも、若干混乱したのですが、きっとこれも仕掛けのひとつなのでしょう。

現実か妄想なのか…不安が襲ってきた

 わたしは以前、認知症の症状をVRで疑似体験しました。レビー小体型認知症の症状である幻視を再現したもので、そこには見えるはずのない人間や虫が映っていて、映像上でわたしに話しかけてくる人のそばで幻視が見えるので、会話に集中できませんでした。

 没入感はしっかりあったし、認知症の人が見る幻視がどういうものかを理解できたのですが、自分自身とディスプレイの中で起きていることは明確に区別できたのです。

『ファーザー』はVR体験の時とは違った感情で、登場人物や室内の絵画や装飾品などが微妙に変化し、自分が見ているものが本物なのか妄想なのか、どの場所のシーンなのか、気づくと自分自身が混乱の中にいます。

 あれ、今のだれだ? ん? ここはどこだ? 作品の最後までこんな状態が続くので、見終わってもいったいどういう話だったのかを理解できずに終わる方もいるかもしれません。

 最初はアンソニーの言動を認知症の症状に当てはめながら見ていましたが、途中からはスクリーンの混沌の中に自らの身を置き、身を任せるように見ると今度は不安が襲ってきました。

これほど認知症が自分事になった映画は初めて

 作品に置いてかれるこの不安はきっと、認知症の人が現実を理解できないときの不安と重なるもので、これほど認知症が自分事になったのは初めてかもしれません。そしてこの困惑した感情はきっと、認知症の人の日常そのものです。

 時間も場所も正確に分からない世界で、自分の残された能力だけで生きていくには、自分を納得させるストーリーが必要です。たとえそれが現実と大きく乖離していたとしても、認知症の人にとっては正解であり、不安の渦から見つけた一筋の光なのだと思います。

 脚本家のクリストファー・ハンプトンはインタビュー映像の中で、『認知症を芸術的に描こうとした作品』と言っていました。

 そして作品を見た観客からは、「もっと重苦しい作品だと思っていた」と言われたそうです。認知症という言葉自体が持つイメージは、日本も世界もそれほど変わらないようです。

認知症の母は恐怖や不安と毎日戦っている

 何年もかかって進行していく認知症の症状を、わずか97分の上映時間で体感するので、認知症への恐怖が少し助長されてしまうかもしれませんが、それでも認知症本人の目線で描かれる苦悩や葛藤が斬新です。

 スクリーンを通じて、認知症の感覚を追体験できたことで、少しだけ認知症の未知の領域が理解できたような気がします。わたしの母もきっと、映画の中で描かれている妄想の世界の中で生き、何も分からない恐怖や不安と毎日戦っているのかもしれません。

 すべては分かってあげられない、だけど目の前で母が混乱しているのなら、現実との違いを指摘して怒るのではなく、混沌とした世界にそっと手を差し伸べてあげたい。難しいことではありますが、少しずつチャレンジするきっかけをもらった気がします。

 今日もしれっと、しれっと。

■映画『ファーザー』

※NETFRIXで配信中(2023年10月現在)。

(C)NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION TRADEMARK FATHER LIMITED F COMME FILM CINÉ-@ ORANGE STUDIO 2020

工藤広伸(くどうひろのぶ)

祖母(認知症+子宮頸がん・要介護3)と母のW遠距離介護。2013年3月に介護退職。同年11月、祖母死去。現在も東京と岩手を年間約20往復、書くことを生業にしれっと介護を続ける介護作家・ブロガー。認知症ライフパートナー2級、認知症介助士。ブログ「40歳からの遠距離介護」運営(https://40kaigo.net/)。音声配信メディア『Voicy(ボイシー)』にて初の“介護”チャンネルとなる「ちょっと気になる?介護のラジオ」(https://voicy.jp/channel/1442)を発信中。

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この記事へのみんなのコメント

  • 非常に興味があります。是非観てみたいです。個人差はありますが、これほど混乱するのなら、手助けは必須です。しかし、混乱の酷いときに例えば家事をさせるとかは 、おそらくおかしなことをしてしまうだろうし、かえって疲れさせて良くないのではないかと考えさせられました。 最近は当事者から見た映画が多いので良いことだなと思います。昔は弄便にしてもその行為のショッキングさだけが騒がれていた覚えがあります。

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