西城秀樹さん“病に負けない心” 脳梗塞と多系統萎縮症に挑み続けた日々【第3回】
美紀さんは主治医の話は必ず同席して細かくメモを取ったという。常に前を向いて病と闘い続ける夫のために、自宅でもできることがあればどんな小さなことでも実践したいと考えていたからだ。
「家族みんながパパの病気を本気で治そうと考えていました。長女はパパのリハビリをよく手伝ってくれましたね。休みの日はパパと長女、私の3人でよく公園に出かけました。彼女が数メートル離れて『パパ、ここまで1人で歩いてみて』と声をかけるんです。私は転んで骨でも折ったらどうしようとひやひやしましたが、彼女は動じない。パパも長女の前では頑張って支えなしで歩くんです。長女はパパが歩けると自分も少しずつ後ろに下がっていって、結構過酷な運動になるんです」
暮らしの中でさりげなくトレーニング
もう一度ステージで歌い、踊り、飛び回る。そんな目標を掲げてリハビリに挑んでいた秀樹さんを、家族が一丸となってサポートした。2015年頃からは、さらに本格的なリハビリのためにトレーニングのジムに通うようになった。
「子供たちが一緒にジムへ行って隣で体を動かすと、秀樹さんはすごく張り切っていました。私がやっても結構息があがるトレーニングなんです。1時間かけてストレッチして鍼を打ち、段差の上り下りやエアロバイク…。他にも椅子を使って立ったり座ったり腿を鍛える動きを繰り返すのですが、お尻にお肉がついていない秀樹さんは、固い椅子で尾てい骨がすれて、とっても痛そうでした。だから家では、ソファのオットマンを利用していました。秀樹さんにオットマンの前に立ってもらって、私が前から手を支えて座ったり立ったり、何十回と…。これならふかふかしているからドスンと尻もちをついても大丈夫なんですよ」
家でも、普段から生活の中で使っている家具などを利用して、日常的にリハビリができるように工夫していた。オットマンもそのひとつ。インテリアにも人一倍こだわりがあった秀樹さんは、自宅ではあえてリハビリ専用の用具などを使用せず、トレーニングに励んでいたという。
過酷なリハビリの後にはご褒美を
もう一度「YOUNG MAN」を完全に歌って、踊りたい――。その目標に向かってひたむきに努力を続けてきたが、2017年頃からは足が思うように動かなくなり、家の中でも転倒することが増えていった。それでも秀樹さんは懸命にリハビリを続け、週5日トレーニングジムに通うこともあった。
「リハビリの辛さで心が折れそうになる日もありました。そんなときは、大好きな甘いものをご褒美にしようと決めて…。『終わったら喫茶店でママとお茶して帰りたいなって』と秀樹さんが言うので、帰宅途中の高速近くにあった純喫茶で、バナナやメロンがのったフルーツパフェを食べたこともあります。あっというまに食べちゃうの。あのときの秀樹さん、とっても嬉しそうでしたね」
そう言って美紀さんは目を細めた。介護のための特別な道具を揃えたわけではないが、美紀さんは、リハビリの先生からマッサージの仕方を学び、家でも取り入れていた。そんな風に、日常の中でさりげなく秀樹さんを支え続けてきた。
【木本美紀さんの寄り添い方】
・主治医の言葉を信じて前向きに考える
・リハビリには家の中にあるものを活用
・辛いリハビリ後にはご褒美を用意
次回は、闘病生活を支えた西城秀樹さんの愛用品についてお話を伺う。
→西城秀樹さん闘病中の自宅改修と愛用した暮らしの道具【第4回】
木本美紀
1972年大阪生まれ。近畿大学理工学部土木工学科卒業後、建設コンサルタント会社に就職し、結婚を機に退職。2001年に西城秀樹と入籍し、1女2男と3人の母に。夫秀樹さんとの出会いから闘病生活、看取るまでを克明に綴った著書『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』(小学館)は10万部を超えるベストセラーに。
撮影/浅野剛 取材・文/介護ポストセブン