84才、一人暮らし。ああ、快適なり「第9回 テレビの功罪」
1965年に創刊し、才能溢れる文化人、著名人などが執筆し、ジャーナリズムに旋風を巻き起こした雑誌『話の特集』。この雑誌の編集長を30年にわたり務めたのが矢崎泰久氏。彼はまた、テレビやラジオでもプロデューサーとして手腕を発揮、世に問題を提起してきた伝説の人でもある。
齢、84。歳を重ねてなお、そのスピリッツは健在。執筆、講演活動を精力的に続けている。ここ数年は、自ら、妻、子供との同居をやめ、一人で暮らすことを選び生活している。
オシャレに気を配り、自分らしさを守る暮らしを続ける、そのライフスタイル、人生観などを連載で矢崎氏に寄稿してもらう。
今回のテーマは「テレビ」。徹夜でスポーツを観賞することもあるという矢崎氏は、テレビ創世記から制作にもかかわってきた。そのテレビに思うこととは…。
悠々自適独居生活の極意ここにあり。
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10年程前から、10月、11月はテレビの虜になってしまう。ひどい日には1日10時間以上もテレビを観ている。
最大の理由は、ワールド・シリーズと日本シリーズをリアルタイムで観戦してしまうからだ。
加えてBS放送が始まってからは、アメリカのバスケット・ボール、フットボール、更にヨーロッパのサッカーを観るのだから、時間がいくらあっても足りない。
時にはNHKの大河ドラマ、テレビ朝日の『ドクターX』『相棒』を観る。
ヤレヤレである。
同居人が居ればストップをかけられるところだが、一人暮らしをしていれば制約なし。私ときたら、もともと何事によらず、限度というものを弁(わきま)える質(たち)の人間ではない。まったくもって気ままそのものなのだ。
テレビを観続ければどうなるか。
当然、疲労困憊(くたくた)の極(きょく)に達する。仕事はむろんのこと、読書も、食事も疎(おろそ)かになる。それが異常に続くと、突然ブッ倒れてしまう。
自慢ではないが、スタミナ抜群であっても、見かけ以上に老いさればえてござる。
つまり、アウトとなった挙句に爆睡(ばくすい)する。あらゆることをスッポかし、ようやく回復と相なるわけ。バカだねぇ。
テレビ創世記から共に生きてきた
自業自得であるから、テレビを恨むわけにもゆかない。それでも一向に懲りないのだから、我ながら全く始末に負えない。
戦争中はラジオしかなかった。しかも、浪花節(なにわぶし)か落語だけが娯楽放送で、大相撲中継は年間1度しかない。他は説教かニュースばかり。子供のことなどNHK(日本放送協会)は知らん顔だ。
戦争が終っても、しばらくは混乱のまっ只中にいた。
1950年の朝鮮戦争によって、特需景気が訪れた。食足りてようやく娯楽が蘚ったのである。
街頭テレビに人々は群がった。頑張れ! 力道山。
テレビの誕生と私の青春はほぼ同時だった。
同世代の人々がテレビで大活躍するようになった。永六輔、青島幸男、前田武彦、大橋巨泉。みんな生々(いきいき)していた。創世記のテレビは、彼らによって占拠されていたと言っても過言ではない。
カラーテレビが登場する。1964年の東京オリンピックで普及化する。と、同時にテレビは一気に巨大(マンモス)化したのである。
作家の柴田錬三郎は、永六輔一味を「テレビの寄生虫」と罵り、評論家の大宅壮一は「一億総白痴化」とテレビを社会悪と決めつけたのだった。
いつしかテレビ・コマーシャルが時代の先端の位置を占める。これがキッカケのように、日本の社会はどんどん墜落の一途を辿った。
要するに金、金、金の時代がどんどんふくらんで行ったのである。誰もが、それに呑み込まれて行った。
理想の民主主義や格差のない自由などは、どこかに埋没してしまったのである。それを平和ボケと称する人もいたが、ほとんどの人達は気づくこともなく、欲望の趣くままに生きるようになってしまった。
他人事ではない。その坩堝(るつぼ)の中に自分もスッポリ収納されてしまっていたのである。
時代は目まぐるしく変って行く。取り残されまいと、追いつけ追い越せ、あくせくと生きた結果、私たちは一体何を獲得したのか。
スマホは持たない、ロボットの支配は受けない
反省したところで、もうどうにもならない。そんな思いの中で老いを迎えた者たちが抵抗できるとすれば、スマホは持たないとか、ロボットの支配だけは受けないと決心することぐらいである。
日々の価値感が変わり、理想も持たず、目標もない。そんな若者が巷(ちまた)にあふれているように私には見える。
余計なお世話だと一笑に伏されるかも知れないが、私たち昭和ヒトケタの意地(おもい)は譲れないと、やっぱり思う。
テレビで有名になり、コマーシャルに登場することが恥と思わないタレントであふれている。金の蔦に魂を売ったっていいじゃないかと開き直っている。勲章を欲しがる高齢者には目を覆いたくなるが、叙勲制度に疑問を持たない阿保には、つける薬はないのだ。
せめての楽しみを見つけたくなる自分が、いささか哀れではあるけれど、かと言って憤死だけはしたくない。
そんなわけで、ま、いいかと、テレビのスイッチを点けて、スポーツを観る。テレビには、そうした功罪がはりついているに違いない。
取り敢ず、必ず決着がつく。それが勝負と言うものだ。だから、私は予想を立てて、スポーツ競技を見続ける。見果てぬ夢を、何かに託すことで、今日という一日を終らせることができる。
究極の楽しみとは、何事によらず予知することではないだろうか。やがて自分にも終りはやってくる。その時、納得できるかどうか。自分自身で見届けたい。
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矢崎泰久(やざきやすひさ)
1933年、東京生まれ。フリージャーナリスト。新聞記者を経て『話の特集』を創刊。30年にわたり編集長を務める。テレビ、ラジオの世界でもプロデューサーとしても活躍。永六輔氏、中山千夏らと開講した「学校ごっこ」も話題に。現在も『週刊金曜日』などで雑誌に連載をもつ傍ら、「ジャーナリズムの歴史を考える」をテーマにした「泰久塾」を開き、若手編集者などに教えている。著書に『永六輔の伝言 僕が愛した「芸と反骨」 』『「話の特集」と仲間たち』『口きかん―わが心の菊池寛』『句々快々―「話の特集句会」交遊録』『人生は喜劇だ』『あの人がいた』など。
撮影:小山茜(こやまあかね)
写真家。国内外で幅広く活躍。海外では、『芸術創造賞』『造形芸術文化賞』(いずれもモナコ文化庁授与)など多数の賞を受賞。「常識にとらわれないやり方」をモットーに多岐にわたる撮影活動を行っている。