84才、一人暮らし。ああ、快適なり<第6回 好色のすすめ>
ま、波瀾万丈と言えばその通りの人なのだが、好色にかけては一向に収まらず、それなら私も、と女房は、大相模の力士にのめり込んで 、地方巡業に付いて歩くほどのタニマチになった。つまり、二人の遊び好きは第二次世界大戦になるまで、一向に収まらなかった。
戦後、八重が死んで一人ぼっちになった時は、物集髙量も米寿を迎 えていた。新婚の私は、板橋で物集老人と同居するという生活からスタートしている。狭い一軒家だから、のべつ元気な老人に浸蝕され、夫婦生活どころではなかった。しかも、新聞記者で外泊が続き、その留守中に私の妻を手籠(てごめ)にしてしまった。
私もびっくりしたが、実家に逃げ帰った妻は、ついに戻って来なかった。
やがて民生委員に面倒を見てもらうようになるのだが、生活保護と私の父からの月々の仕送りが届くと、たちまち池袋の場外馬券売り場に嵌(は)まってしまう。
106才で亡くなる朝まで女性のお尻を撫で
介護に来る女性が年寄りだったり、不器量だったりすると玄関から中に入れない。まったくの勝手者で、とにかく本は読むが、テレビでスポーツ番組を片っ端から観て楽しんでいたらしい。
物集髙量は99歳になった時に、一念発起して、『百歳は折り返し点』(日本出版社、現在は絶版)という自伝を出した。これが売れたのである。50万部を超えた時に、『徹子の部屋』のゲストに招かれ、ついに有名人の仲間入りを果たした。黒柳徹子さんが気に入って、毎月のように4回も出演させたからである。ついに120万部売れた。
突然、大金持ちになった物集老人は、「これからは宇宙時代が始まる」と天体望遠鏡を買って、宇宙科学の勉強を始めた。美人の助手も雇って、105歳までは一人暮らしをしていたが、歩行困難となり、板橋区の施設に入居。
老衰で死んだ朝も、タバコを吸いながら、お気に入りの看護師さんのお尻を撫でていたという。これぞ長寿の秘訣らしい。
当時(1985年)は東京の男性で最高齢だったことから、鈴木俊一都知事が葬儀で弔辞を読んだ。
桑原桑原(くわばらくわばら)。
矢崎泰久(やざきやすひさ)
1933年、東京生まれ。フリージャーナリスト。新聞記者を経て『話の特集』を創刊。30年にわたり編集長を務める。テレビ、ラジオの世界でもプロデューサーとしても活躍。永六輔氏、中山千夏らと開講した「学校ごっこ」も話題に。現在も『週刊金曜日』などで雑誌に連載をもつ傍ら、「ジャーナリズムの歴史を考える」をテーマにした「泰久塾」を開き、若手編集者などに教えている。著書に『永六輔の伝言 僕が愛した「芸と反骨」 』『「話の特集」と仲間たち』『口きかん―わが心の菊池寛』『句々快々―「話の特集句会」交遊録』『人生は喜劇だ』『あの人がいた』など。
撮影:小山茜(こやまあかね)
写真家。国内外で幅広く活躍。海外では、『芸術創造賞』『造形芸術文化賞』(いずれもモナコ文化庁授与)など多数の賞を受賞。「常識にとらわれないやり方」をモットーに多岐にわたる撮影活動を行っている。