“快速四兄弟”の老老介護 長男は100才で介護する側に立つ
福井県鯖江市の「快速四兄弟」が話題になっているという。名前は上から大森良一、大森栄一、白崎栄、大森良作。年齢はそれぞれ100才、97才、90才、88才、合計年齢375才だ。
四兄弟は、今年6月に鯖江市内で開かれた『河和田地区民体育大会』の昼休み中に行われる「特別レース」に出場、4人揃って60m競争に挑み、見事な快走を見せて、「快速四兄弟」と呼ばれるようになったのだ。
そんな仲睦まじい4人だが、現代人には想像もつかない「激動の時代」を生き抜いてきた。
絶対に生きて帰らないかん
長男の良一さんが生まれたのは、第一次世界大戦真っただ中の1917(大正6)年。続けて1920年に栄一さんが誕生し、1926年に栄さん、1928年に良作さんが生まれた。
当時、日本は第一次世界大戦後の恐慌にあえぐなか、1923年に発生した関東大震災が追い打ちとなり、暗く沈んだ時代だった。働き手を増やすため多産の家庭が多く、大森家の母親も9人の子を産んだ。
「次男の栄一が生まれた次からは、生まれては死ぬの繰り返し。9人いた子供たちは最終的に男ばかりの5人になりました」(良一さん)
激動の時代、必死に働いて優しく子供を育ててくれた父親の姿が四兄弟のまぶたに焼きついている。
「父は木工を仕事にしていて、重箱や箸などを作っていました。優しい性格のスポーツマンで、大正時代に福井県の第1回体育大会に選手で出場したそうです」(栄一さん)
「子煩悩な父親で、木工仕事の合間におもちゃの車や飛行機をよく作ってくれました」(栄さん)
その一方、家長が重んじられた時代だけに、長男への子育ては厳しかった。
「『アニキは黙っとれ』が父の口癖でした。家の仕事を早く継げと言われて、高等小学校を卒業するとすぐ自宅の敷地内にある工場で、父と一緒に働き始めました。『他のやつに負けるな』とよく発破をかけられましたね」(良一さん)
20才の時、良一さんは父親の知人の娘であるミサノさんと結婚したが、幸せは長く続かなかった。
「結婚してすぐに赤紙が来ました。当時は支那事変(日中戦争)の真っただ中。国中が“今度も必ず勝つ”と押せ押せやった」(良一さん)
1度目の召集は軍事教育のみだったが、半年後に2度目の召集があり、いよいよ戦地に向かうことになった。旅立ちの時、良一さんの妻は手首に包帯を巻いていた。
「その時、ミサノから『これをお守りに』と小さな袋を渡されたんです。中には白地に血で日の丸を描いたハンカチが入っていました。すごい女でしたわ。召集直前にミサノが子供を身ごもったことを聞かされて『絶対に生きて帰らないかん』と誓いました」(良一さん)
2年半に及ぶ中国大陸での従軍では、残虐な戦闘行為も目の当たりにした。その後、帰国して大阪の陸軍造兵廠で働き、その後京都で終戦を迎えた。
次男の栄一さんは日本軍が敗色濃厚の1943年に召集され、台湾とフィリピンの間にあるバタン島に送られた。
「召集時は『国のために働ける』とうれしかったけど、いざ前線に行くと『いつやられるか』と死を覚悟することもあった。結局、バタン島で終戦を迎えて、捕虜として4か月間フィリピンに収容されました。劣悪な環境のなか、『日本に帰るんや』という気力だけで毎日を過ごしました」(栄一さん)
ようやく本土に引き揚げたのは終戦の年の暮れだった。栄さんと良作さんは戦地には赴かず、国内で戦争を経験した。当時、学徒動員されて神奈川県川崎市で働いていた良作さんは空襲に遭遇した。
「住んでいた寮こそ無事やったが、周囲は火の海で会社も工場も壊滅した。川崎を抜け出して汽車に乗り、途中で野宿して命からがら河和田に戻ったんや」(良作さん)