《二人の母が守りたかったもの》新田恵利が夫と明かす介護と看取りの作法 「家にいたい」と即答した実母と「赤坂を離れたくない」元銀座のクラブオーナーの義母
二人の母を、わずか数年の間に見送った夫婦がいる。タレントで福祉分野にも関わる新田恵利さんと夫の長山雅之さんだ。自宅で看取った母と、施設で亡くなった母。性格も手持ちの財産も対照的だった二人だが、その最晩年には共通する姿もあった。異なる二つの「老い」と向き合った経験から見えてきたものとは――。ライターの末並俊司氏が取材した。【前後編の前編】
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新田さんの夫、長山さんの実母は、銀座の有名クラブの元オーナーだ。銀座四丁目の交差点から、和光本店を右手に見て数寄屋橋方面へ歩く。都道304号沿いに進むと並木通りに行き着く。昭和の名曲『たそがれの銀座』で〈プラタナスの葉かげに、ネオンがこぼれ〉と歌われた通りだ。その中ほどにある通称「ポルシェビル」には、銀座ツウなら誰もが知るクラブが入る。
かつて、先輩ライターにこんな話を聞かされたことがある。
「バブルの頃の銀座の夜は、タクシーが全然捕まらないんだ。でも、偉い作家先生を送る時はどうしてもタクシーが必要になる。そんなときは『グレ』とか『姫』とか『サードフロア』なんかにいったん入って、そこで1杯だけ呑むんだ。そして店の人にタクシーを呼んでもらう。するとすぐに1台回してくれるんだよ。銀座の高級クラブってそういう力を持っているんだ」
この話、真偽は定かではない。ただ、当時の銀座を思えば、さもありなんと頷いた。
先輩ライターの語った逸話に登場する並木通りの「ポルシェビル」、その3階にあったクラブ「サードフロア」の元ママが長山さんの実母、長山和榮さんだ。
全く違う二人の母
新田・長山夫妻は、2021年に新田さんの実母・新田ひで子さん(享年92)を、その約3年後に長山さんの実母・長山和榮さん(享年90)を看取った。ひで子さんは夫妻の住む自宅で、和榮さんは施設で亡くなった。二人の母は、性格や手持ちの財産が驚くほど違う。けれど、最晩年の生き方には、共通点もあった。
新田さん、長山さん夫妻は、2000年に自宅を新築し、それまでひとり暮らしだった新田さんの実母・ひで子さんを招いていっしょに暮らしはじめた。その後、2014年に骨折をきっかけに寝たきりとなったひで子さんの自宅での介護が始まった。知識ゼロからの在宅介護だったが、新田さんは約6年間の生活のなかで、介護や福祉に対する知識を身に着け、21年の9月には『悔いなし介護』(主婦の友社)を上梓した。
ひで子さんは、もともと介護が必要な状態ではなかった。骨粗鬆症による圧迫骨折を繰り返してはいたが、そのたびに回復し、犬の散歩にも出かけるなど日常生活を維持していた。むしろ家族を支える側に回ることもあったという。
「私のことも、犬のことも、母のほうが世話してくれる側だったんです」(新田さん)
だが2014年秋、転倒で骨折し、手術を受けたことで状況は一変する。退院時には立つことも歩くこともできず、トイレにも行けない状態となり、そこから在宅介護が始まった。
「本当に青天の霹靂でした。介護保険のことも、要介護認定のことも、何も知らなかった」(同前)
退院時の要介護認定は4。知識ゼロの状態から、仕事と両立しながら自宅での介護体制を整えていった。後から考えれば、病院から退院するタイミングは、在宅介護か施設介護かの大きな分岐点だ。しかし、当時はその意識はなかったという。ただ目の前の現実に対応するだけだった。一つだけはっきりしていたのは、母の意思だった。
「“手厚い施設の介護と、私たち家族でやる介護と、どっちがいい?”って聞いたら、“あなたたちと家にいたい”って即答したんです」(同前)
いっしょに暮らす自宅は、あらかじめバリアフリーを意識していたが、それでも不十分な部分はあった。介護は制度だけでなく、住環境の細部がそのまま負担になる。それでもひで子さんには、ベッドから車椅子、車椅子からトイレへと、自分で移乗できるだけの身体機能が残っていた。
「ほぼベッドでの生活になったのですが、完全にオムツだけの生活にはならなかった。母は努力が嫌いな人でしたけど、それでも“トイレだけは自分で行きたい”と思っていたんですね。歩けるようになりたい、ではなくて、トイレに行けることを守りたい。それが本人にとっての尊厳だったんだと思います」(同前)
長山さんはその話を聞きながら、こう言う。
「そこが、お義母さんらしいよね。現実的というか、ちゃんと自分の生活の芯がわかっている」
一方、長山さんの実母は、前述の通り銀座のクラブの元オーナーだ。18歳で地方から出てきて、銀座で働き始め、料亭「長山」を開き、その後クラブ「サードフロア」を切り盛りした。並木通りのポルシェビル3階。そこが彼女の拠点だった。人脈も華やかで、気前がよく、外では人を元気づける力があった。けれど厳しい面もあった。
「母はね、やっぱり“銀座の人”だったんですよ。病院に入っても個室が当たり前だし、備品にもこだわる。レストランへ行けば平気で1万円のチップを渡す。最後まで、生活の感覚がずっとそのままでしたね。店は亡くなる5年ほど前に知り合いに譲っていました。かなりの金額が手元に入ってきたと思われるのですが、亡くなったあとにはほとんど残っていませんでした(苦笑)」(長山さん)
和榮さんの住まいは赤坂の高額な賃貸マンション。息子が「仕事も辞めたんだから、もうちょっとリーズナブルな物件に引っ越せば」と提案するが、頑として受け付けなかった。「物件のランクを落とすことは、都落ちみたいで、嫌だったんでしょうね」と、長山さんは振り返る。
「なにしろ、西麻布ですら“どんな田舎よ”って言うような人でしたから。僕らにしたら十分都心なんですけど、母にとっては違ったんでしょう。赤坂から離れることは、ただ引っ越すっていうことじゃなかった。自分が築いてきた人生から下りることだったんだと思います」
新田さんは、その義母の気持ちが少しわかるとも言う。
「たぶん、見栄とかワガママだけじゃなかったんだと思うんです。そこが自分の人生だったんですよね。うちの母は“家にいたい”だったけど、お義母さんは“赤坂を離れたくない”。言葉は違っても、最後まで自分の場所を守りたいっていう意味では似ているのかもしれません」(新田さん)
二人の母を看取る中で、看取り方の違いも明確に表れた。
看取りの準備と「その後」の現実
新田さんの母は在宅で徐々に弱っていったため、最期が近いことを家族で共有できた。その経験から、葬儀も生前に準備していた。
「私には兄がいます。その兄に“どうせ必要になるなら先に決めておいたほうがいい”って。お葬式のことも事前に相談したんです。兄は”縁起でもない”と反対したのですが、最後は“早割があるから”と納得させました。実際に生前に手続きをすると葬儀代が割引になるプランがあるんですよ(笑)」
結果的に、死後は気持ちに集中することができたのだという。しかし一方、長山さんの実母・和榮さんは急逝だった。「それも12月31日ですよ」と長山さん。あまりに突然のことだったため、事前の準備はできておらず、手続きが一気に押し寄せた。しかもその時期、長山さん自身が大病を抱えていた。
◆取材・文:末並俊司
すえなみ・しゅんじ/1968年、福岡県生まれ。介護ジャーナリスト。2006年からライターとして活動。両親の在宅介護を機に介護職員初任者研修(旧ヘルパー2級)を取得。介護・福祉分野を専門に取材を続ける。著書『マイホーム山谷』は小学館ノンフィクション大賞を受賞。
