飯田美代子さん(95才)編集者からシニアインフルエンサーへ「和文化を伝え続ける」理由
御年95でインフルエンサーとしても活躍する飯田美代子さん。女性編集者の先駆け的存在であり、和文化や日本のマナーの大切さをYouTube、TikTokなどのSNSで配信し、若者からも支持を集めている。戦争を体験し、自ら人生を切り開いてきた半生に迫ります。【Vol.2/全3回】
プロフィール/飯田美代子さん
1930年東京都生まれ。美容業界の雑誌編集を経て、婦人画報社に入社。女性誌やブライダル雑誌の編集に長年携わる。和文化や日本のしきたりについて研究を続け、『和婚 -花嫁衣装&和の結婚式新ルール-』(芸文社)など著書多数。90才のときにSNSを開始し、YouTube、InstagramやTikTok など総フォロワー数は45万人以上。「モテるおとな」をテーマにした動画を数々配信し、話題に。
新聞記者から女性誌の編集者へ
――編集者になるのにどんな道のりを歩まれたのですか。
15才のときに終戦を迎て、疎開先の群馬で女学校に通っていましたが、終戦後一家で都内に戻ってからは、戦時中に通っていた東京府立第七高等女学校(現、都立小松川高校)に転入しました。
もともと文学少女でしたから、文章を書く仕事がしたい、新聞記者になりたいと思っていて、いずれは小説家か随筆家になりたいという夢を抱いていました。
大学は日本大学芸術学部の文芸学科に入学して、そこなら新聞社への就職の道が開けるのではないか、と。ところが、大学を卒業した1950年代後半は就職難で、そもそも大卒の女性を雇ってくれる会社があまりなかったんです。
――女学校を出たら結婚するという時代背景で、大卒女性というのも珍しかったですよね。
どうしても書く仕事がしたかったので、地方に目を向けることにしました。島根・松江の新聞社の募集を見つけて、すぐに手紙を書いて送ったら採用して頂けました。
ずっと親元で暮らしてきましたから、松江で初めての一人暮らし。会社に紹介してもらった下宿先が、松江の旧家の立派なお宅でね、朝は、出勤前に家族が揃って、お茶をたててから、出勤するという旧家ならではの慣わしがありましてね、とてもいい体験をしました。
――新聞記者として松江で活躍されたのですね。
新聞社で記事の書き方を一から学びました。新聞記者になって、ゆくゆくは文筆業で生計を立てたいという思いがあったので、必死で働きましたね。文章を書くのが根っから好きでしたから、仕事は楽しかったのですが、あるとき東京に戻ることにしました。
地方紙の記者になって2年経った頃、なんと初期の結核に罹って体調を崩してしまいました。東京に戻って養生ししたほうがいいだろうと。東京に戻ってきてから、意外にも回復が早かったんですよ。それで仕事を探してみたら、運よく美容関係の雑誌社に入社が決まって。そこから15年ほど編集者として働きました。
――飯田さんは当時は珍しかった、女性編集者の草分けでもあります。
父に聞いた話では、我が家のご先祖様は旗本で、『御祐筆(ごゆうひつ)』といって、日記や記録を書く仕事をしていたそうです。私が編集の仕事に就いたとき、『美代子はご先祖様の血を引いているんだな』と喜んでくれたことを懐かしく思い出します。
40代に入った頃、婦人画報社で美容雑誌の専門家が必要だということで声をかけていただいて、長らく美容やブライダル関係の記事や編集の仕事に携わりました。
60代で起業、そして和文化の発信
60代にさしかかったとき、自分で出版社をやってみようと思って起業して、そこから長らく和文化の発信に力を注いできました。
出版社を立ち上げた1980年代は、ワープロが登場して必死で覚えましたよ。作家さんからファックスで送られてくる手書きの原稿を、ワープロで打ち直して写植屋さんに渡すという仕事もありました。ワープロからパソコンの時代に変わり、原稿はワードを使うようになってね。大昔はペンを持って原稿用紙を前に死にたいなんて思ったものですけどね(笑い)。
仕事のスタイルも変化していくものですね。長年編集や書く仕事を続けて来られたのは、時代の変化に怯むことなく楽しんでこられたからかもしれませんね。
――和文化の発信に力を入れられるようになった背景を教えてください。
子供の頃から日本舞踊を習っていて着物が身近でした。着物は季節によって生地や合わせ方も変わる日本特有の素晴らしい文化です。しきたりやマナーについてSNSで発信するようになったのも、若い人たちに日本の美しい文化を伝えていきたいから。
文化や伝統といっても昔のものをそのまま受け継ぐのではなく、時代に合わせた形で変化していく。変わりゆくことがまた面白いものです。
たとえば婚礼。日本人の伝統的な結婚式である神社での神前式が始まったのは明治以降です。それまでは花嫁さんは自分の家からお婿さんの家に行き、双方の家族が揃って三々九度するのが一般的でした。昔は花嫁衣装も白無垢ではなく、黒塗りの着物だったんですよ。
いまではウエディングドレスが普及していますが、着物の結婚式は「和婚」として、長く受け継がれています。
生涯独身を貫いた理由、両親のこと
――ご両親とはずっと一緒に暮らしていたんですか。
ええ、私は結婚を一度もしませんでしたから、両親とずっと暮らしてきました。だって父より格好いい男性には出会ったことがないんですから。(笑い)。
父は79才、母は97才で旅立ちました。父は病気で亡くなりましたが、母は90代に入っても頭脳明晰、自分のことは自分でして、晩年まで自分の足でしっかり歩いていました。
お裁縫が得意だった母は、私の洋服や着物も全部縫ってくれました。1日1回は針を持たないと嫌という人でしたが、95才のときに「針のめどに糸が通らないし、縫い目が揃わなくなった」と、お裁縫をきっぱりやめてしまいました。そして97才になる直前、外で転んだことをきっかけに弱ってしまって。リハビリにも取り組んでいましたが、最後は寝たきりになってしまい亡くなりました。
あんなにしっかりしていた母がどんどん弱っていく姿を見て、人は動けなくなったらあっという間に逝ってしまうものだと感じました。(次回につづく)
取材・文/廉屋友美乃
