《愛溢れる両親の老老介護の記録》映画監督・信友直子さんが明かした「93歳父の“愛”が認知症85歳母を追い詰めたことも」危篤の母が涙した父の言葉「あんたが嫁に来てくれて…」
両親の“老老介護”を記録して話題を集めた映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』の監督で知られる信友直子さん(63歳)は、講演会で介護サービスの大切さを語っている。それは実際に認知症の母を愛情から父が1人で介護した結果、母の症状は悪化し家族が険悪になった経験をしたからだ。そこから家族が笑顔を取り戻し、不思議な看取り体験をするに至るまでを信友さんが語ってくれた。
夫は愛情から認知症の妻を1人で介護した結果、妻の認知症が悪化しうつ状態に
――お母さんが脳梗塞になって入院するまで、お父さんが自宅で介護を続けたんですね。
信友さん:母が2014年1月に認知症と診断され、そこから2年ほどは父だけで母の介護をしていました。私としては介護サービスを利用して、身体介護や家事援助を受けてもらいたかったのですが、父が「わしの女房じゃけん、わしが面倒を見る」と言い張ったんです。
母はもともと社交的で友達も多く、外に出るのが大好きな人でした。けれども父は「帰られんようになったらいけんけん、家におりんさい」と、買い物も全て自分が引き受けて、母を家に閉じこめちゃったんですね。父は耳が遠いので、母が話しかけても聞こえなかったりするんです。話し相手がいないから、母は一日中黙って床のゴミを取っているような、孤独な生活になっちゃって。
――外からの刺激がないから、お母さんの認知症が進んでしまったんですね。
信友さん:しかも「私はなんで、おかしくなっちゃったんだろうか」とばかり考えるから、うつ状態になってしまったんです。私も母が心配だから、頻繁に広島の実家に帰ってましたが、帰るたびに母のうつ症状がひどくなり、能面みたいに表情が乏しくなっていました。
それで、デイサービスなどを利用して母を外に出したい私と、自分で面倒を見たい父でケンカになりました。そんな私たちを見て母も「私がおらんかったら…死にたい」と言い出して、母も含めて3人で揉めるようになったんです。これは限界だと思った私は、地域包括支援センターに初めて相談に行きました。
介護サービスを利用した結果、家族に笑顔が戻った
信友さん:地域包括支援センターの方に事情を説明すると「信友さんみたいなケースはすごく多いんですよ」と返ってきました。両親のような戦前生まれの人って、人の世話になることを恥だと思ってる人が多く、深刻な老老介護になるケースが多いみたいで。
「事情が分かったからには介入していくので、安心してください」と言われて、私は安堵のあまり、その場で崩れ落ちそうになりました。その後センターのかたは、娘の私から相談があったことは言わずに、上手に父を説得してくれました。私は2年かけても無理だったのに、プロはすごいですね。
――介護サービスを頼った結果はどうでしたか?
信友さん:頼って大正解でした。デイサービスに行くといろんなプログラムがあるので、ゲームをしたり歌ったりと忙しく、「何で私はこうなっちゃったんだろう」って考えなくてすむんです。
それに頭も使うし、人に会えば気も遣うので、帰ってきたら疲れてぐっすり眠れるんですよね。すると次の日はスッキリと目が覚めて、生活リズムができる。それに、母に笑顔が戻ってきたから、父と私もケンカをしなくなったし、ヘルパーさんやケアマネさんを介して新しい話題もできて、家の中が活性化されました。
――お父さんはよかれと思って介護を頑張られていましたが、知らず知らずのうちにお母さんが追い詰められてしまったんですね。
信友さん:家族だからといって身内だけで抱えてしまうと、余裕がなくなって全員イライラしてしまう。そうすると、本人にもきつく当たっちゃうんですよ。だけど、ヘルパーさんが入ると父も楽になって、家族が穏やかになりました。
家族だけで介護することは、美談のように見えるけど、誰も得をしません。家族がいるのに他人の手を借りるのは怠慢じゃないかと責める人がいるようですが、それは現実が見えていません。自分に余裕がなければ、人に優しくできませんから。「お母さん大好きだよ」と心から言える精神状態になることが一番大事なんです。
母親の看取りは不思議な体験だった
――お母さんは2018年9月に脳梗塞で入院し、退院することなく2020年6月に亡くなられたと。
信友さん:新型コロナウイルス感染症の流行が、母の死に大きく影響しました。父は毎日、母の面会に行って手を握り、「はよ帰ってこいや」って励ましていたんです。だけど、コロナ禍で面会ができなくなってしまいました。
母には「明日から行けない」と伝えていましたが、認知症だから忘れてしまって「なんでお父さんは来ないんだろう?」とずっと思っていたはずです。脳梗塞で寝たきりですから、2か月半も父に会えなくて、生きる気力をなくしてしまったのかなと思います。
緊急事態宣言が解除されたので、2020年6月1日に短時間だけ面会できることになりました。2か月半ぶりなので、父はきれいにヒゲを剃って新しい服をおろして張り切っていたのですが、午前11時に病院から「お母さんが危篤です」と電話がありました。面会時間を待たなくてもいいから来てくださいということで、慌てて2人で行きました。
父は母に「おっかあ、わしじゃわかるか?」と声をかけました。そうしたら、微弱だった心電図とかが大きく動き出したんです。なんと、母は持ち直したんです。それからは毎日15分ぐらい面会できたので、父の声を毎日聞けるから、母も元気になっちゃって(笑い)。
――寝たきりで目を閉じて返事がなくても、ちゃんと聞こえていたんですね。
信友さん:そうなんです。私は母に「こんなことがあったね」と昔の思い出を語り、父は母に希望を持たせたいと「またファミレスにハンバーグを食べに行こうや」と話しかけていました。信友家の何十年かを家族3人で振り返ったような、宝物みたいな時間でした。
そして6月13日、とうとう先生に「夜までおってあげてください」と言われました。それまで父は、母に改まったことは言わなかったんです。別れのあいさつみたいだからと。けれど覚悟を決めた父は母の手を握って「おっかあ、今までありがとうね。あんたが嫁に来てくれて、わしゃあいい人生じゃった」って。すると母の目から、すーっと涙が流れたんです。
それまでは私は娘として、「お母さん逝かないで」って悲しい気持ちでいましたが、母の涙を見たら「よかったね。お母さん、幸せじゃねえ」と思って。母が亡くなるのに、幸せな気分になったんですよ。
その時に、人が亡くなるのは悲しいだけじゃないんだって。初めての看取りだったのですが、すごいものを見せてもらったという、感謝の気持ちというか、すごく不思議な体験でした。
◆映画監督、TVディレクター・信友直子
のぶとも・なおこ/1961年12月14日、広島県生まれ。2009年、自らの乳がん闘病記録『おっぱいと東京タワー~私の乳がん日記』でニューヨークフェスティバル銀賞、ギャラクシー賞奨励賞などを受賞。2018年に発表した両親の老老介護の記録映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』が大ヒット、文化庁映画賞文化記録映画大賞などを受賞。2022年には続編映画も公開した。現在は、104歳になった父と呉市の実家で同居しつつ、講演会で全国を飛び回っている。
撮影/小山志麻 取材・文/小山内麗香